淡青色のゴールド

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書評『中動態の世界』「意志」とは何かを言語と思考とその研究の歴史から考える旅路

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書評『中動態の世界』「意志」とは何かを言語と思考とその研究の歴史から考える旅路

こんにちは。書評ブログ「淡青色のゴールド」へようこそ。本記事は哲学者の國分功一郎さんによる『中動態の世界 意志と責任の考古学』の書評記事です。

 

内容紹介

哲学者國分功一郎さんの著作で、第16回(2017年)小林秀雄賞を受賞している作品です。國分功一郎さんは『暇と退屈の倫理学』を始めとして哲学に詳しくない人でも気軽に楽しく、それでいて日常生活の中での気付きや学びを得ることのできる著作も多く書かれているのですが、本書はどちらかというと思想としての哲学に踏み込んだ書籍です。アーレントやデリダ、ハイデッガー、スピノザといった哲学者たちの研究成果に触れながら分析や思索が進められています。とはいえ、難解な文章ではありませんので哲学(西洋哲学)にそれほど親しんでいない方でも楽しむことができる本ですし、言語の意味や歴史を分析する分析哲学という分野に関心のある方は本書のような本をまず手にしてみるのもオススメです。

本書は「シリーズケアをひらく」というケア論や福祉などについての論考が多いシリーズから出版されていることや、能動態でも受動態でもない中動態という概念を元に<する>と<される>という関係を考えるという紹介文(以下Amazonの紹介文を参照ください)もあることから、福祉やケア、支援といったテーマを考える視点も含まれているのかと思っていたのですが、本書自体はほぼ全編にわたって中動態という概念そのものと向き合う思索の旅が続きます。中動態という概念の面白さはこれだけ丁寧に扱うに足る奥深さを持っているので個人的には大満足ではあるのですが、福祉や支援といった分野のより現場に近い観点で考えたい方は、『中動態の世界』の後に中動態という概念を元に当事者研究の専門家である熊谷晋一郎さんと共に出版した『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』の方から手にするのが良いかもしれません。(詳しくは本記事末尾のオススメ書籍紹介欄でも紹介しています)

Amazonの商品紹介より引用します。

自傷患者は言った「切ったのか、切らされたのかわからない。気づいたら切れていた」。依存症当事者はため息をついた「世間の人とは喋っている言葉が違うのよね」
――当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか? 語る言葉がないのか? それ以前に、私たちの思考を条件付けている「文法」の問題なのか?
若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考。

本書の内容紹介文としては以下の出版社コメントの方が参考になるかもしれません。

中動態とは何なのか? その名称からは、まるで能動態と受動態の中間であるかのような印象を受ける。その印象は正しいのか?
また現在、中動態は少なくとも言語の表舞台からは消えてしまったように思われる。本当にそうだとすれば、それはなぜ消滅してしまったのだろうか?
いや、もしかしてそれはまだ姿を変えて残り続けているのだろうか?
それにしてもなぜわれわれは中動態について教わることがないのか?
若き哲学者は、バンヴェニスト、アレントに学び、デリダ、ハイデッガー、ドゥルーズを訪ね直し、細江逸記を発見し、アガンベンに教えられ、そして新たなスピノザと出会う。

本書の構成

本書は以下のように構成されています。

プロローグ
第1章 能動と受動をめぐる諸問題
第2章 中動態という古名
第3章 中動態の意味論
第4章 言語と思考
第5章 意志と選択
第6章 言語の歴史
第7章 中動態、放下、出来事――ハイデッガー、ドゥルーズ
第8章 中動態と自由の哲学――スピノザ
第9章 ビリーたちの物語

あとがき

本書をオススメする人

本書は以下のような方に特にオススメです。

  • 「責任」や「(自由)意志」の概念の問題点について関心があるかた
  • 言語の意味や歴史を分析する分析哲学に関心のあるかた
  • 福祉や対人支援、対人関係における<する><される>関係に関心のある方
  • ハンナ・アーレントの思想に関心のある方

『中動態の世界』という本書のタイトルだけを見て、すぐに「面白そう!」と感じる方はあまり多くないのではないかと思いますが、読んでみれば本書を楽しめるという方は『中動態』というキーワード自体に最初はピンとこない方の中にもたくさんいらっしゃるように感じます。かくいう私も本書を最初に知ったのは本書発売から間もなくの頃でしたが、実際に読むまでには4年ほどかかりました。当時の同僚から興奮気味に紹介してもらい、なんとなく興味は持っていたもののなかなか実際に手にするまでには至らず…、という状態が続いていたのですが、読み終えた今となってはもっと早く読めばよかったと心の底から思っています。

『中動態の世界』にはどんな面白さがあるのかの要約

本書は能動態と受動態だけでは表せない概念である「中動態」についての考察がなされる書籍ということで言語学に関わる本です。ただ、単に言語そのものについて考えるだけではなく、言語と思考、そしてそれらに向き合う研究や思索の歴史を紐解くことで、私たちの日常世界における思考や社会のあり方への新たな視点をもたらしてくれる哲学書です。

そんな一見難しそうな本書は、

「私がなにごとかをなす」

という一見なんということのない文章を考察することから本書は始まります。

私たちが慣れ親しんだ文章構造の理解では文章は基本的に能動態か受動態かで区別することができ、上記の文章は能動態の文章です。そして「[主語]は◯◯をなす」という能動態の文章は「◯◯は[主語]によってなされる」という文章に書き換えることができるはずです。つまり「なにごとかは私によってなされた」ということ。

では、この「なにごとか」が「歩く」という動作だった場合はどうでしょう。最もシンプルな能動態で表せば「私が歩く」となりますが、この文章を受動態で表すことはできるでしょうか。

「歩行は私によってなされた」では、いまいち意味がわからない文章になってしまいます。もう少し日本語の表現として磨いて「私が歩かされている」としても本来意味したかったものとはずれているように感じます。

これはなぜでしょうか。ここで著者は意志の存在を持ち出します。

「私が歩く」という表現には<私>の「歩こう」という意志によって歩行という行為がなされているように見えますが、実はそう単純な問題ではないと著者は指摘します。歩くという動作は人体中の多数の骨や関節、筋肉が繊細な連携プレーによって可能になっているものだが、私たちは普段歩くときにこれらすべてを自分の意志で動かそうとしているわけではありませんし、実際身体の各部は意志からの指令を待って動いているわけではなく各部で自動的に連携して動いていることが知られています。

また、身体がそうして歩くという動作を行ったとしても歩くという行為が正確に行われるためには、足が着地する地面の状態が歩くに適した条件であることが一歩一歩確保されている必要があり、歩行する身体は一歩踏み出すごとに毎度毎度異なる外的条件に対応しながら歩行という行為が行われていることになります。

こうした一連の事柄を考えてくると、歩くという行為を遂行しようとした<私>の意志とは何を指しているのか、はたしてそのようなものがあったのかということもよわからなくなってきます。

「私がなにごとかをなす」という文章は形式としては能動態として表現されていますが、この形式で表される事態や行為の中には必ずしも自分が意志を持って遂行しているとは言い切れないものがあるといえます。

少し著者の文章を引用しましょう。

「私が歩く」という分が指し示しているのは、私が歩くというよりも、むしろ、私において歩行が実現されていると表現されるべき事態であった。つまり、能動の形式で表現される事態や行為であろうとも、それを能動の概念によって説明できるとは限らない。「私が謝罪する」ことが要求されたとしても、そこで実際に要求されているのは、私が謝罪することではない。私の中に謝罪の気持ちが現れ出ることなのだ。

形式としては能動態で表されていても能動態の範疇には収まらない行為や自体が存在します。しかし、それを受動態に書き換えてもうまく表現されない。実はそのような事態は私達の日常にあふれています。能動と受動の区別は、すべての行為を「する」と「される」かに配分することを求めますが、この区別は十分ではないし正確でもないということです。しかし、私たちはこの区別しか知りません。それはなぜなのでしょうか。

「私がなにごとかをなす」という能動の表現には、事態や行為の出発点が<私>にあるということが前提とされており、その際に<私>の中に想定されているのが「意志」の存在です。意志とは、周囲の環境その他の情報や他者の言動などの影響を踏まえて、自分が何ごとかをなそうと自発的に考える精神の働きのことを指します。

しかし、私たちは周囲の影響に反応して意志を持つことになるはずだが、周囲の影響とは切り離され、独立して自分が起点となって生まれるものが意志と考えられています。意志が生まれるためには周囲の物事を意識していなければならず、それは自分以外のものからの影響を受けているということだが、にもかかわらず。意志はそうして意識された物事からは独立していなければ意志とは呼べません。ここには明らかな矛盾が存在します。

本書では「意志」という概念の内容や起源を詳細に検討していきます。そしてその過程で、能動/受動という視点の持ち方の歴史はそこにどう絡んでいくのか、能動と受動だけでは表現しきれない概念を捉える「中動態」という概念は何を表すもので、現代の私たちの言語理解からはなぜ忘れ去られてしまったのか。そうしたことを、古代から近代までの言語学者、哲学者等の議論や研究を紐解きながら考察していく、というのが本書の長い旅の目的です。

例えば、古代ギリシャの時代、アリストテレスの言葉についての研究を読み解く箇所では著者は以下のように述べます。

アリストテレスは意志の実在を認識する必要がなかった。つまりギリシア人は、われわれが「行動の原動力」だと考えているものについての「言葉さえもっていない」のだ

つまり私たち人間が使う言語の歴史、そして思考や認識の歴史において「意志」という概念は古代から常に存在したわけではなく、ある時代から何らかの経緯や理由をもって表れてきたものであるということです。にもかかわらず、(特に西欧科学文明によってグローバル化した)現代社会で暮らす私たちにとって「意志」という概念の存在やそれが本人の能動的なものであることはあまりにも発想の前提となっており、それなしには社会生活は成りたたない程です。例えば近代民主主義制度の根幹として立法・行政・司法の三権分立がありますが、司法制度などはまさに自発的な意志による故意の犯行であるかどうかや、自らの意志であると責め立てて良いのか(責任能力があるか)が問題とされるものであり、私たちが暮らす現代社会は「意志」を前提として成り立っているのです。

しかし、その「意志」という概念が実は私たちが素朴に信じている程に確かなものでないとしたら…。


…いかがでしょうか。実はこれ要約と書きましたが、第1章のみのさわりなのですが、ここまでを読んで「面白そう!」と思えた方は絶対に楽しむことができます。激しくオススメです。

「意志」をめぐる言語の旅の途上で出会う多くの気付き

第2章以下の内容は要約には適しませんのでぜひぜひ本書を手にしていただければと思いますが、言語や言語研究の歴史を丁寧に組み立てながら中動態という馴染みのない概念に向き合わせてくれる著者とともに本書を読み進めていく中では、たくさんのハッとする言葉や考えに出会うことができました。私自身の備忘録も兼ねて(ネタバレ的な肝心な表現や文脈は外しつつ)いくつかご紹介します。気になる言葉や考えがあるという方はぜひ読んでみてください。

言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。(第4章 言語と思考、P111)

 

つまりアレントによれば、未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去から切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められたとき、はじめて、意志に場所が与えられる。始まりを司る能力、何ごとかを始める能力の存在が認められることになる。(第5章 意志と選択、P129-130)

 

日常において、選択は不断に行われている。人は意識していなくとも常に行為しており、あらゆる行為は選択である。そして選択はそれが過去からの帰結であるならば、意志の実現とは見なせない。ならば次のように結論できよう。意志と選択は明確に区別されねばならない。(第5章 意志と選択、P131)

 

もしかしたら自発的一致の可能性はアレントにとって、この暗い世の中での政治的生活がもちうる唯一の希望であったのかもしれない。しかし、人間の純粋な意志や自発性を否定することは、必ずしも、政治的生活への絶望にはつながらない。なぜならば、複数人いる人間たちが、非自発的な仕方であれ、一致をつくり出すプロセスに参与できればよいからである。(第5章 意志と選択、P160 )

 

行為の帰属を問う言語が、その帰属先として要求するのが意志に他ならない。意志とは行為の帰属先である。哲学者のジョルジョ・アガンベンは、意志とは行動や技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置だと述べている。選択から区別される限りでは存在するかどうかすらあやしいこの意志の能力が、行為を記述するとなると突如引き合いに出されるのはそのためである。(第6章 言語の歴史、P176-177)

 

「意志が未来を主張することは、人間に過去の忘却を強いるということであり、それによって思考は、そのもっとも重要な活動であるan-denkenすなわち回想を奪われてしまう」(第7章 中動態、放下、出来事――ハイデッガー、ドゥルーズ、P204)

 

つまりハイデッガーはこう言っているのだ、意志することは考えまいとすることである、と。(第7章 中動態、放下、出来事――ハイデッガー、ドゥルーズ、P206)

 

たしかにわれわれは外部の原因から刺激を受ける。しかし、この外部の原因がそれだけでわれわれを決定するのではない。この外部の原因はわれわれのなかで、afficiturという中動態の意味をもった動詞表現によって指し示される自閉的・内向的な変状の過程を開始するのである。(第8章 中動態と自由の哲学――スピノザ、P251)

 

われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧縮されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。(第8章 中動態と自由の哲学――スピノザ、P256)

 

自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。(第8章 中動態と自由の哲学――スピノザ、P263)

英語は主語が明確、日本語は主語が不明確という”思い込み”

本書は主にギリシアに始まる西洋哲学の歴史に学ぶところの多いものですが、私たち自身が使用している日本語の特性や歴史、英語を始めとした西洋の言語との違いといった点にも触れられながら進んでいきます。その際になるほど、と感じたことの一つがしばしば言われる「英語は主語が明確、日本語は主語が不明確」という説は”思い込み”であり実態とは異なっているという話です。

1928年に編まれた論集で発表された英文学者・細江逸記による論文について触れる中で著者は以下のように述べています。

そもそも、「実際「所相(受動態)」なるものは、言語事実として、決して原始的なものではなく、英語諸国においても普通人の日常会話には用いらるることが少ない」。受動態がどうしても必要な場合というのは、「行為者が知られざるか、または話者の心中に的確ならざるとき」であるのだが、これはいわゆる再帰表現によって表現可能である。
細江の述べていることを大昔の話と考えてはならない。現代英語においても、受動態で書かれた文の八割は、前置詞byによる行為者の明示を書いていることが、軽量的な研究によってすでに明らかになっている。つまり、ほとんどの受動態表現は能動態表現に転換不可能だということである。

このように俗説的に私たちが認識し「日本語はこういうものである」と思考停止してしまいそうなポイントも丁寧に崩しつつ、とはいえもちろん言語間の違いにも視点をやりながらも、言語にまたがって共通する構造や歴史を紐解いていく著者の丁寧な記述には脱帽ですし、本書の主題から離れた点についてもさまざまな気づきを得ることができました。

言葉の意味や言語を深堀りする分析哲学と現代の哲学の潮流

本書は言語における「中動態」という形式の概念やその歴史を扱いますが、このように言語の分析を主なテーマとするものは哲学の中でもとくに「分析哲学」と呼ばれます。(乱暴な定義かもしれませんが)

なぜ言語を分析することが哲学の主要なテーマになるのかというと、そこには「世界があって言語があるのではなく、むしろ言語があって世界が開かれる」という発想があるからです。つまり世界を分析しようと思うのなら、まずは言語を分析する必要がある、ということですね。

「世界があって言語があるのではなく、むしろ言語があって世界が開かれる」という発想は哲学における言語論的転回とされており、20世紀後半の哲学はこの発想のもとにさまざまな言説が展開されました。

その後、現代の哲学は言語論的転回からさらに進み、大きく3つの潮流があると言われています。自然主義的転回、メディア・技術論的転回、実在論的転回の3つです。それぞれが他の学問分野の進展や技術的進歩などの影響を受けながら言語分析のその先を題材としようとしているといえます。

こうした哲学の潮流自体は本書の内容そのものとは直接関係はしませんが、哲学という広いテーマに取り組む際に、今時分はどのような位置づけの中で思考を深めようとしているのかということを個人的には意識しながら考えていきたいなと思っています。

新進気鋭の哲学者、國分功一郎

ということで、本記事では『中動態の世界』の魅力についてご紹介してきましたが、最後に著者の國分功一郎さんについても少し述べたいと思います。私が國分功一郎さんの著作を読むのは本書が初となったのですが、気になる著作が多く以前から読んでみたいと考えていた方でした。

國分功一郎さんは1974年生まれということで哲学者、哲学研究者としてはまだまだ若手の人材ですが、すでに著書多数で非常に活躍している哲学者です。特に、哲学に詳しくない一般の読者でも面白く読める著作が多い印象があります。一般読者向けに哲学入門のような著作を書いていらっしゃる哲学者の方は多く、私もそうしたものをいくつも読みながら徐々に哲学という分野に関心を持つようになってきましたが、とはいえ、なかなか本格的な哲学書を手にする気にはなかなかなりません。やはりどうしてもハードル高く感じてしまいます。

その点、國分功一郎さんの著作は哲学自体の入門書ということではなく、ストレートに哲学を扱いながらも一般読者も関心を持てるような絶妙なテーマ設定の著作が多いです。

たとえば、最近文庫化したのが『暇と退屈の倫理学』。哲学書で文庫化、というのも珍しいと思いますが、それだけ多くの人の関心を集めるテーマを面白く読ませる力を持っている方だといえます。

現在私の手元には『暇と退屈の倫理学』の文庫版と、『中動態の世界』の続編ともいえる『<責任>の生成 中動態と当事者研究』があり、どちらも読むのが非常に楽しみです。

その他にも『来たるべき民主主義』などの政治テーマの新書や、同じく若手哲学者の千葉雅也さんとの共著『言語が消滅する前に』も気になっています。今後の活躍にも期待ですね。

『中動態の世界』を読んだ方にオススメの本

最後に本書を読んだ方や興味を持った方にオススメの本をご紹介します。

國分功一郎、熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』

本記事で述べた観点のうち、中動態という言語としての概念やその歴史といった点よりも「する」「される」の関係といった点をより深く考えてみたい方にオススメなのが國分功一郎さんが同じく東大准教授で主に当事者研究を専門としている熊谷晋一郎さんと共著で著した『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』です。責任やその背景にはる自由意志などの近代社会の基本とされる概念のもろさをどのように捉え直せば良いのかをお二人の研究の成果を元に解説する書籍です。『中動態の世界』よりも平易な記述となっているため、哲学にそれほど親しんでいない方にも読みやすいと感じます。

ハンナ・アーレント『責任と判断』

『中動態の世界』でもその議論が丁寧に分析されているハンナ・アーレントは「責任」という概念を考える上で欠かせない存在です。アーレントの著作は分厚いものが多くなかなか読み通すのも大変なものが多いです。解説本も豊富なのでまずは解説本から手にするのも良いですが、やはりいつかは読んでみたい一冊としてご紹介します。

宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』

自発的で能動的な「意志」を持つ個人同士が集まり、個々人の能動的な「意志」を根拠に「責任」や「権利」が生まれ、その個人同士の相互作用によって成り立っているのが現代社会とされていますが『中動態の世界』を読むとそもそもその前提から捉え直す必要があるのではないかと考えさせられるのですが、実はそうした意志と責任の問題で社会を切り盛りするという発想だけでは無理があることは、教育や福祉などの現場では当たり前に感じるところです。キャッチーなタイトルで話題となった本書は少年院等で精神科医として勤務していた経験を持つ著者が「刑事責任を問われる加害者」となる少年少女たちの中に教育や福祉の網の目から漏れてしまった人がいかに多いか、そこにどのような問題があるかを解説しています。

伊藤亜紗 、中島岳志、若松英輔、國分功一郎、磯崎憲一郎『「利他」とは何か』

責任や意志といった概念を考える際に良い題材となるのが「利他(他社のために為す)」という概念です。本書はさまざまな分野の方がそれぞれの研究分野から利他という概念について考える視点を提供している論考集で、『中動態の世界』の著者國分功一郎さんも論考を寄せています(國分さんが述べているのはまさに「中動態」という概念から利他を考えるという視点です)。中動態や利他といった観点から派生的にどのような視点が広がりうるのか思索の幅を広げたい方にはオススメです。

竹田青嗣『超解読! はじめてのフッサール『現象学の理念』』

中動態の概念によって「する」「される」の関係性を捉え直すという作業は、言い換えれば近代科学の根本的な視座である「主体と客体」という発想へのまなざしを見つめ直すという作業ともいえます。この「主体と客体」という視点の持ち方にまた違った角度からのアプローチを試みているのがフッサールの現象学です。竹田さんの解説はフッサールが何を問題視し何を訴えているのかが非常にわかりやすく学ぶことができ、オススメです。


最後までお読みいただきありがとうございました。