本から本へつながる書評ブログ『淡青色のゴールド』

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戦争と近現代日本について考えられるようになるために私が読んだ本【毎年更新】

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戦争と近現代日本について考えられるようになるために私が読んだ本【毎年更新】

こんにちは。書評ブログ「淡青色のゴールド」へようこそ。本記事では「戦争と近現代日本について考えられるようになるために私が読んだ本」と題し、私自身が自分なりに考えられるようになるために読んでよかったと思えて、そして皆さんにも読んでほしいと感じた本をご紹介します。

 

 

この記事を書こうと思ったワケ

色々な物事をもっと知り、もっと考えて、世界や日本で起こることや自分が身の回りで目にする様々なことに自分なりの視点で向き合えるようになりたいと思っています。私は基本的に知的好奇心は旺盛な方だという自覚があります。さまざまなことに対して知りたい、考えられるようになりたいと思っていて、だからこそ色々な本を読んでいるという部分もありますし、このブログをやっていることにもつながっています。(もちろん単に楽しみとして、エンタメとして読みたい気持ちもありますし、そうした観点から選ぶ本もかなり多いですが)

そして世の中にはさまざまな分野や物事がありますが、中でも「戦争」というのは社会の中で起こる出来事の中でも特に難しくて、自分なりに考えられるようになりたい大きなテーマの一つです。自分が生まれ、育った日本という国における戦争の歴史や、日本人としての戦争との向き合い方ということも考えられるようになりたいし、考えを言葉にできるようになりたいと思っています。

これまでに色々な本を少しずつ読んだり、本以外にも人と話したり、色々見聞きしたりをしてきていますが、まだまだ自信をもって自分の考えがあるとは言えませんし、言葉にすることも難しいと思っています。もちろん今後も勉強はし続けていくつもりですが、すでに自分自身の年齢は30代半ばとなり「いい大人だな」とも思っていて、考え、言葉にすることにまだ自信を持てない自分に焦りを感じたりもしています。

ただ、このような「戦争」や「(近現代の)日本(と戦争の関係)」について考えられない・話せないという焦りや自信のなさのようなものは、自分だけに限った話ではないとも感じています。そのように感じている人は自分以外にもたくさんいるし、わからないということに対して諦めてしまう人もいると思いますし、幸運なことに今のところ平和な日本に生まれ育つことができた中で「自分には関係ない」と無関心になってしまう人もいるのではないかと思います。

それではいけない、と思いつつも、私が自分なりの考えをしっかりと持って、それを言葉にできるようになるまでにはまだまだ時間がかかってしまうかもしれないので、まずは自分が様々な本を読んで勉強し、考えを深めたり巡らせたりしていく過程自体を共有しつつ、同じようにこのテーマを考えられるようになりたいと思う方に対してのきっかけになればと思い、この記事を書くことにしました。

「戦争はなくすべきである」といつまでもそんな当たり前の言葉だけで止まらず、「なぜ起こってしまうのか」「何がいけないことなのか」「戦争や紛争やテロのニュースに触れたときにどのように捉えればいいのか」「日本の戦争の歴史と現在をどう捉えればいいのか」「自分ができることは何か」そんな、色々なことをしっかりと考えられるようになっていきたいです。

2023年8月追加の3冊(2023年8月8日追記)

毎年8月に更新予定のこの記事も、今回で3年目となりました。普段の読書も自分なりにリサーチテーマというか考えたいことがあって選ぶ本が多いのですが、年に一回この記事を更新するということが頭にあると、その時々で関心のあるテーマとはまた別に戦争に関する本が目につくようになったり、戦争について考えるようになったりしていて、年単位でのテーマを持つというのもなかなか面白いなと感じながら本記事の準備を進めてきました。今年も3冊の本を追加します。

『夜と霧 新版』(ヴィクトール・E・フランクル)

前々から読もう読もうと思っていつつもなかなか手が伸びずにいた本でした。本書はアウシュビッツ等の強制収容所から生還したユダヤ人精神科医による著作です。移送中→収容中→解放後とそれぞれの段階で著者自身や周囲の人がどのような振舞いをしていたのか、それらを心理学的にどう解釈できるのかの解説がなされていきますが、特に後半の苦しみや生、人生の意味や目的をどのように捉えるかという著者の考えが示されている箇所は圧巻です。本書を読んだのと近い時期には「ネガティブ・ケイパビリティ」について何冊か続けて読んで考えていたのですが、強制収容所という極限の環境において、合理的論理的には答えようのない状況や問いに対して、それでも向き合いうるという人間の姿勢はすごいものだなと感じます。もちろんネガティブ・ケイパビリティを極端で高尚なものとして捉えようということでもないですし、本書から無理に普遍的な学びを抽出しようということではないのですが、そうした派生的なことも含めて色々なことを考えさせられる読書体験となりました。

Amazonの商品紹介から引用します。

名著の新訳には、つねに大きな期待と幾分かの不安がつきまとう。訳者や版元の重圧も察するにあまりあるが、その緊張感と真摯さのためか、多くの場合成功を収めているように思われる。本書もまた、その列に加わるものであろう。
ユダヤ人精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった本書は、わが国でも1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。著者は悪名高いアウシュビッツとその支所に収容されるが、想像も及ばぬ苛酷な環境を生き抜き、ついに解放される。家族は収容所で命を落とし、たった1人残されての生還だったという。

このような経験は、残念ながらあの時代と地域ではけっして珍しいものではない。収容所の体験記も、大戦後には数多く発表されている。その中にあって、なぜ本書が半世紀以上を経て、なお生命を保っているのだろうか。今回はじめて手にした読者は、深い詠嘆とともにその理由を感得するはずである。

著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。というよりも、むしろ人間を解き明かすために収容所という舞台を借りているとさえ思えるほど、その洞察は深遠にして哲学的である。「生きることからなにを期待するかではなく、……生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題」というような忘れがたい一節が、新しくみずみずしい日本語となって、随所に光をおびている。本書の読後感は一手記のそれではなく、すぐれた文学や哲学書のものであろう。

今回の底本には、旧版に比べてさまざまな変更点や相違が見られるという。それには1人の哲学者と彼を取り巻く世界の変化が反映されている。一度、双方を読み比べてみることをすすめたい。それだけの価値ある書物である。

 

『きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記』(日本戦没学生記念会編)

『夜と霧』で強制収容・虐殺という戦争被害者の当事者としての環境や心理について読んだことに派生して、第二次世界大戦中の日本の当事者の声について読んでみたいと感じ、手にしたのがこちらの本でした。本書はタイトルにも記載されている通り、第二次世界大戦に徴収されその尊い命を散らした学生・若者たちの手記を集めたものです。この本の存在自体は知っていましたが、実際に読んでみて最初に感じたのは、想像よりもずっと色々なことが書かれているという恥ずかしいぐらいに当たり前のことでした。手記は基本的に時系列に沿って並んでおり、太平洋戦争の開戦前、戦中、そして敗戦後と進んでいきますが、それぞれの時期、それぞれの環境の中で、当時の学生たちが、戦況に対して、軍部や軍国主義・全体主義に対して、家族や友人に対して、そして自分の人生に対して、色々なことを考えています。必ずしも遺書的なものだけでなく日記からの抜粋も多く含まれていたり、短歌や詩が読まれていたり、手紙が書かれていたりといろいろです。色々なのは考えてみれば当たり前なのですが、「戦没学生」というとどうしても神風特攻の前の遺書というようなこれから死に向かっていくというその瞬間の思いにばかり自分のイメージが固まってしまっていたことに気付かされました。当たり前ですが、みんな日々を生きていたのです。でも、そういう当たり前のことも、やはり読まねばわかりません。ぜひ読んでいただきたい一冊です。

個人的に気になったというか想像力をふくらませることになったのは、本書にも収められていないような感情や声です。本書は「戦没学生の手記」ということで、基本的に学生のものです。当時の大学生・大学卒ですから相当に高学歴な層です。手記を残すという習慣自体が一種のフィルターともなっているので、手記を残さなかった多くの若者たちは当時の軍国主義的な状況の中でどのように感じ、何を考えていたのだろうということも考えました。

Amazonの商品紹介から引用します。

酷薄な状況の中で,最後まで鋭敏な魂と明晰な知性を失うまいと努め,祖国と愛する者の未来を憂いながら死んでいった学徒兵たち.一九四九年の刊行以来,無数の読者の心をとらえ続けてきた戦没学生たちの手記を,戦後五○年を機にあらためて原点に立ちかえって見直し,新しい世代に読みつがれていく決定版として刊行する.

『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(大木毅)

「独ソ戦」という言葉やそれが歴史的な出来事として何を指すかということはもちろん知っていたのですが、改めて考えてみると詳細にはほとんど何も知らないということに気づき手にした本です。私は高校では日本史選択だったのですが、高校日本史の教科書では、第二次世界大戦中の欧州の経緯というのはほんの数行しか触れられていなかったような記憶だったのですが、本記事を書くのに当時の教科書を開いてみたところ(山川の『詳説日本史』)数行どころかドイツがポーランドに侵攻したことをきっかけに第二次世界大戦がはじまったことと、連合国軍の反攻によりイタリアについでドイツが降伏したことぐらいしか記載されていませんでした。私の独ソ戦についてのおぼろげな知識は高校卒業以降その後の読書などで得たものだったんですね…。

さて、本書についてですが、独ソ戦の通史が学べる構成となっています。軍事面のみならず、ドイツとソ連それぞれの政治経済的な文脈や、ヒトラー・スターリンやその他上層部の個々人の心情も含めた政治的な動きをなるべく総合的に、そして中立的に記述しようという丁寧な仕事がなされている印象でした。純軍事的対立はもちろんありつつ、ナチズムとスターリニズムというイデオロギーの対立や政治心情、歴史も含めた社会的な文脈が絡んだがゆえの国民国家による「絶滅戦争」の怖さを強く感じました。では、この戦争を指導者ではなく当事者として参加していた・させられていた人たちはどのように感じていたのか、という点については本記事公開時の5冊で紹介しているアレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』がロシア側の本として合わせて読むと良いでしょうし、ドイツ側のものとしては『ドイツ戦歿学生の手紙』がまだ未読なので読んでみたいなと感じました。

Amazonの商品紹介から引用します。

「これは絶滅戦争なのだ」。ヒトラーがそう断言したとき、ドイツとソ連との血で血を洗う皆殺しの闘争が始まった。想像を絶する独ソ戦の惨禍。軍事作戦の進行を追うだけでは、この戦いが顕現させた生き地獄を見過ごすことになるだろう。歴史修正主義の歪曲を正し、現代の野蛮とも呼ぶべき戦争の本質をえぐり出す。

2022年8月追加の3冊(2022年8月8日追記)

2021年8月にこの記事を公開してからの一年での戦争というテーマにおける最も大きな出来事といえばやはりロシアのウクライナ侵攻でしょう。軍事侵攻の開始から約半年が経過した2022年8月時点でもまだ、その着地点は見えていません。2020年代に入ってここまであからさまな軍事侵攻が起こりうるという事実にも衝撃を受けましたし、報道のあり方を含め、私や私たちがどのようにこの事態に向き合うのかということも考えることが色々とありました。

『ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争』(高木徹)

ウクライナ侵攻が起こってすぐに「欲しい物リスト」の中から選びだしたのがこの本でした。今回のウクライナ侵攻でも、その報道のあり方に注目が集まったり、ウクライナのゼレンスキー大統領の巧みなスピーチを演出するスピーチライターやPR会社の存在に注目が集まったりしましたが、そうした戦争報道に対してのメタ的なリテラシーを養いたいという方にはぜひ一読をお薦めしたいのがこの『戦争広告代理店』です。

本書は、1992年から1995年まで続いたボスニア紛争を題材に、当時の報道がセルビア悪玉論に染まっていったことの裏側にはボスニア・ヘルツェゴビナ側が依頼したPR会社の戦略的な情報操作が働いていたことを、さまざまな関係者への取材を元に構成している著作です。

ボスニア紛争では「民族浄化」「強制収容所」という強く印象的な言葉が効果的に使われたことなどが語られていきます。今回のロシア・ウクライナ情勢でも強い言葉が使われる発表や、市民等への非人道的な振る舞いやその被害の様子を訴える発表が行われたり、あるいはそうした発表が誇張的に作り上げられたものであることが指摘されたりといったことが繰り返され、事実を受け止め、解釈を行うということの難しさを感じさせる事態は少なくありません。

戦争報道に限った話ではありませんが、私たちのメディア・リテラシーはどうあるべきで、それはどのように醸成してくことができるのでしょうか。

Amazonの商品紹介から引用します。

「情報を制する国が勝つ」とはどういうことか―。世界中に衝撃を与え、セルビア非難に向かわせた「民族浄化」報道は、実はアメリカの凄腕PRマンの情報操作によるものだった。国際世論をつくり、誘導する情報戦の実態を圧倒的迫力で描き、講談社ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞をW受賞した傑作。

『日本のいちばん長い日』(半藤一利)

8月15日を前に、前々から読もうと思っていた書籍をやっと読むことができました。ポツダム宣言の受諾決定から昭和天皇の玉音放送が行われるまでの24時間を、関係者への詳細なインタビューで描き出した力作。一時間ごとに、誰がどこで何をしていたのか、その背景は何だったのか、分かっていることと分からないままであることは何なのかを切り分けながら、そして何より単純に未来の視点からの良し悪しで切り捨てることなく、丁寧に組み上げられた構成には脱帽です。

原爆が投下され、ソ連が参戦し、ポツダム宣言を受諾し、玉音放送が流れて戦争が終結したということは歴史の教科書ではほんの数行でまとめられていることですが、その決定をつくり出すことが、いかに難しいものだったのかがよくわかります。戦争終結を進めたい人・勢力にも、徹底抗戦を訴える人・勢力にも、それぞれの論理や価値観があり、そして当たり前ですが、体外的な関係者や情勢も刻々と動いていく中で、綱渡りのように物事が進んでいくさまは、結論を知っているにも関わらず、薄ら寒くなるような感覚を味わいながらの読書でした。

今の時期にこの本を読むと、やはりロシア・ウクライナに思考が飛びます。ロシアのプーチン大統領の強権的な姿勢が報じられることも多いですが、トップ一人の暴走だけで国という巨大な何かが動き続けられる訳ではなく、戦争を止めるにしても、その決定にはさまざまな勢力や個人の利害や価値観や信念が複雑に絡んでいるであろうことは当時の日本の状況を思い返してみるだけでも想像することができます。(ちなみに、ロシアという国の中でどのような思想的な背景や勢力があるのか、という点については『ゲンロン6 ロシア現代思想I』がお薦めです。プーチン一人の暴走だけでは決してないのだろうということがよくわかります)

そしてこの本を読みながらもう一つ考えたことは、歴史における市民の役割です。この本で語られる24時間の”ドラマ”には非常にたくさんの人物が出てくるのですが、そのほとんどは政治家や役人や軍人、それに報道関係者です(そして基本的にほとんど男性です)。一般市民は登場しません。主要登場人物の中にはもちろん、市民に思いを馳せて自身の言動を選んでいく人も多く登場します。だからこそ私たちの知る歴史的な決定がなされたというところも大きいとは思いますが、この歴史的な岐路をつくり出した24時間のドラマに一般市民の登場する余地はなかったのです。私たちの日常はいまこの瞬間も積み重ねられていますが、歴史というものは市民が登場し得ない形でしか構成できないのでしょうか。この先の歴史を私たちがどうつくっていきたいのかを考えるときに、考えるべき視点の一つにように感じました。

Amazonの商品紹介から引用します。

あの日、日本で起きた事。起きなかった事──。
30万部突破の傑作ノンフィクション!
昭和二十年八月六日、広島に原爆投下、そして、ソ連軍の満州侵略と、最早日本の命運は尽きた…。しかるに日本政府は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍に引きずられ、先に出されたポツダム宣言に対し判断を決められない。八月十五日をめぐる二十四時間を、綿密な取材と証言を基に再現する、史上最も長い一日を活写したノンフィクション。
文藝春秋の〈戦史研究会〉の人々が『日本のいちばん長い日』を企画し、手に入る限りの事実を収集し、これを構成した。いわばこれは〝二十四時間の維新〟である。しかもそれは主として国民大衆の目のとどかないところでおこなわれた。──大宅壮一「序」より
2015年映画化。役所広司、本木雅弘、松坂桃李、堤真一、山﨑努 監督・脚本:原田眞人

『武装解除 -紛争屋が見た世界』(伊勢崎賢治)

戦争の終わり方、終わらせ方ということを考えたときに思い出したのがこの本(読んだのは7年前ぐらいです)。戦争が終わるということは単に国等の法人的な主体同士による決定がなされれば良い訳では決してありません。武装した軍隊、兵士が武装を解除し、そうした集団や個人が社会の日常の中に復帰していくことが必要となりますが、当然それは簡単なことではありません。

本書は東チモール、シエラレオネ、アフガニスタンなどの紛争地で実際に紛争処理の指揮にあたってきた伊勢崎氏の著作です。紛争地の現場を伝える書籍としてはジャーナリストによる著作や、人道支援に取り組む方の書籍のイメージが強く、私もそのような書籍は何冊も読んできましたが、紛争処理というなかなかニュースでは語られない現場ではどのようなことが起こりうるのか、その一端を知ることができます。

 

Amazonの商品紹介から引用します。

職業:「紛争屋」
職務内容:多国籍の軍人・警官を部下に従え、軍閥の間に立ち、あらゆる手段を駆使して武器を取り上げる。

紛争解決の究極の処方箋?――DDR
ハンマーがひとつ、ふたつと、古びたAK47オートマティック・ライフルに打ち下ろされる。やっと銃身が曲がり始めたところで、涙を拭い、また打ち下ろす。ハンマーを握るのは、歳の頃は18くらい。まだ顔にあどけなさが残る、同じ年恰好の少年たちで構成されるゲリラ小隊を率いてきた“隊長(コマンダー)”だ。(中略)何人の子供たち、婦女子に手をかけ、そして、何人の同朋、家族の死を見てきたのだろうか。長年使い慣れた武器に止めを刺すこの瞬間、この少年の頭によぎるのはどういう光景であろうか。通称DDR(Disarmament,Demobilization&Reintegration:武装解除、動員解除、社会再統合)の現場である。――<本書より>

机上の空論はもういらない 現場で考えた紛争屋の平和論!
●魑魅魍魎の日本のNGO業界
●政治家なんて恫喝させておけ
●紛争屋という危ない業界
●後方支援は人道支援ではない
●米国が醸し出す究極のダブル・スタンダード
●テロを封じ込める決定的解決法
●和解という暴力
●紛争解決の究極の処方箋?――DDR
●多国籍軍の体たらく
●戦争利権としての人道援助
●日本の血税で買ったトラックが大砲を牽引する
●改憲論者が護憲論者になるとき

2021年8月記事公開時の5冊

今後もずっと勉強し続け、考え続けていくテーマだと思いますので、少しずつということで、まず今回ご紹介する本は5冊と少なめにしました。毎年8月に少しずつ本を追加しながら更新していく記事にしたいと思います。

『この国のかたち』(司馬遼太郎)

司馬遼太郎は自身の太平洋戦争への従軍経験から「一体なぜ?いつからこうなってしまったのか?それは必然だったのか?」という疑問を持つようになり、それが探究と執筆活動の源泉になっていたと語っています。

さまざまな小説作品の中でも、その考えや視点が織り込まれていますが、戦前日本への「なぜ?」という疑問に対しての司馬遼太郎自身の大きな答えの一つなんだろうなと感じるのが大日本帝国憲法における「統帥権」の問題です。

統帥権とは、世界大百科事典によると、

軍隊の最高指揮権。 これは君主国,共和国を問わず国家の元首である君主,大統領あるいは首相が掌握するのが通例。 日本の場合,太平洋戦争敗戦時までは天皇にあった。

統帥権とは - コトバンク

というもので、大日本帝国憲法における天皇大権の一つです。

大日本帝国憲法は天皇主権の憲法ではありつつも、さまざまな事柄は各国務大臣が天皇を輔弼することになっていました。しかし、作戦や用兵などの純軍事的な事柄については統帥部(陸軍参謀、海軍軍令部)の事項とされ、国務大臣が輔弼すべきものからは独立しているという考えが生まれるようになったことが、戦前昭和の軍部の暴走の背景になったということが語られています。

さすが司馬遼太郎だなと思うのは、単に帝国憲法の規定や当時の制度的な解説、あるいは当時の軍部と政治家の関係だけでなく、幅広い視点と歴史的な文脈からこのテーマを捉えていることです。例えば「統帥権」という言葉や考え方についても帝国憲法の規定以前に、そもそも幕末の尊皇攘夷期の天皇と将軍の関係などから「軍事を司るのは誰か」という議論や概念が生じてきたことや、その流れの中で憲法ができたこと、そして軍部の文化や規律を作った人間たちが歩んできた歴史などを丁寧に紐解きながら解説をしていきます。

『この国のかたち』という本自体は、必ずしも戦争やその前後の日本だけをテーマにしたわけではなく、司馬遼太郎が広く「日本」というテーマについて語るエッセイ集で、全6巻で刊行されています。

「統帥権」以外のテーマもどれも面白いのですべてオススメしますが、特に統帥権について読んでみたい方は四巻を手にしてみてください。

Amazonの商品紹介から引用します。

『文藝春秋』の巻頭随筆として十年にわたり連載された「この国のかたち」。長年の間、日本の歴史からテーマを掘り起こし、香り高く稔り豊かな作品群を書き続けてきた筆者が、この国の成り立ちについて研ぎ澄まされた知性と深く緻密な考察をもとに書き綴った歴史評論集。その1~6巻を合本のかたちで!

『翔ぶが如く』(司馬遼太郎)

続けて司馬遼太郎です。日本の戦争やその歴史について考えるということで紹介する最初の5冊に入れる本を『坂の上の雲』にするか最後まで迷ったのですが、一冊目に紹介した『この国のかたち』からの関連ということで『翔ぶが如く』にしました。

司馬遼太郎の大作長編の中でも有名な作品の一つですが、扱っている時代は『竜馬がゆく』が幕末、『翔ぶが如く』が明治維新から西南戦争まで、『坂の上の雲』が明治初期からから日露戦争終結までと、この三作を読むと司馬遼太郎という人がどのように当時の日本や日本人を位置づけていたのかということが理解できるといえます。刊行順では『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『翔ぶが如く』となっており『翔ぶが如く』はこれらの作品の中では一番最後に書かれた作品です。

日清戦争、日露戦争を描く『坂の上の雲』の時点で、軍部の体制やあるいは日本社会の精神性には後の太平洋戦争に続く兆候が描かれていると感じるのですが、「では何故そうした兆候が生まれることにつながったのか?」という司馬遼太郎自身の疑問から、明治維新期を掘り下げる『翔ぶが如く』の執筆につながっていったのではないかと考えています。

評論風小説というか小説風評論というような独特な文体の司馬遼太郎ですが、『翔ぶが如く』は特にその要素が強くほぼ全編が司馬遼太郎の評論ベースで書かれていて、司馬遼太郎に慣れない方が単純な歴史小説というつもりで読み始めると戸惑うかもしれません。

明治初年から西南戦争が終わるまでの西郷隆盛やその周辺の諸人物たちの思想や言動、仕事やその目指すところが互いに混沌としながら入り混じっていく様子が司馬遼太郎の丁寧な解釈で描かれます。明治という混乱の中でどのように政府なのか、社会なのか、あるいは国なのかができあがっていく様子。

ただ、印象としては「できあがっていく」という印象は受けませんでした。時が進む中で「現出してきた」という方が確かなようにも感じます。それでも、その中でも一貫した精神や文化のようなものはあるようにも一方では感じます。そこに面白さもあれば怖さもあります。特に陸軍の精神や人間関係などはその後の時代への徳に負の影響を意識しながら記述したのではないかと感じています。

西郷隆盛に厳しく書いている印象も受けるので西郷隆盛好きな人には印象が良くないかもしれませんが、それでも多くの人に読んでほしい作品です。

Amazonの商品紹介から引用します。

明治維新とともに出発した新しい政府は、内外に深刻な問題を抱え絶えず分裂の危機を孕んでいた。明治六年、長い間くすぶり続けていた不満が爆発した。西郷隆盛が主唱した「征韓論」は、国の存亡を賭けた抗争にまで沸騰してゆく。征韓論から、西南戦争の結末まで新生日本を根底からゆさぶった、激動の時代を描く長篇小説全十冊。

『失敗の本質』(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎)

戦争論と言うよりは組織論であり日本論と感じる本ですが、太平洋戦争当時の日本と今の日本に残念な部分多くの共通点を感じてしまう本です。

単なる歴史研究ではなく、組織論などの研究者がノモンハン・ミッドウェー・ガダルカナル・インパール・レイテ・沖縄の六つの軍事作戦を題材に、当時の日本軍の中で起こっていたことを明らかにしようとする本です。

本書の中で語られる環境に適応しながら進化していく「自己革新組織」は最近では近年のテーマでは「学習する組織」に通じる部分も多いです。それでもやはりこれだけ丁寧に、明快に書かれると気持ちが良い。いや、書かれている内容自体はむしろ現在の多くの組織にも共通していることも多すぎて暗澹たる気持ちにもなるのですが。

外部環境が変化していく中で「自己革新」していくことが求められるが、日本軍は過去の成功を元にした特定環境への最適化が極端に進みすぎたために組織としての柔軟性を失ってしまったといいます。官僚型組織体制と集団主義が両面から良くない方向へ作用し続けたことが、あまりに多くの犠牲を生み出すことにつながりました。特にアメリカ軍との比較は組織としての良い点悪い点が非常に明瞭です。

環境が変化しているにも関わらず、それどころか正常な判断であれば損失が出続けることが明確になってもなお、盲目で思考停止した状態で進み続けてしまう、という姿勢は果たしてしっかりと精算されたのでしょうか。歴史ある大手企業やあるいは行政で多くの不祥事が発生している背景も概ね本書で指摘されていることのように感じてしまいます。残念ながら歴史は繰り返されているし、むしろ最近の状況を見ていると悪化しているようにすら感じてしまいます。

Amazonの商品紹介から引用します。

敗戦の原因は何か? 今次の日本軍の戦略、組織面の研究に新しい光を当て、日本の企業組織に貴重な示唆を与える書。ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦という大東亜戦争における6つの作戦の失敗の原因を掘り下げ、構造的問題と結びつけた日本の組織論の金字塔。

『凍りの掌 シベリア抑留記』(おざわ ゆき)

著者の父親の実体験をもとに描かれた漫画作品です。

私(当ブログの筆者である私自身)の祖父はシベリア抑留からの帰還者です。祖父は私が小学生のときに亡くなってしまったため、直接戦争についてやシベリアについての話を聞く機会はありませんでしたし、母に聞いたところ、母や伯母、叔父など祖父の子どもたちも祖父から戦争やシベリアでの話を聞く機会はあまりなかったようです。

戦争の生き証人から直接お話をお聞きできる機会はどんどんと減っています。語り継がねばならない、ということは当然のこととして「話したくない、言葉にしたくない」「思い出したくない」という当事者たちの気持ちにも同時に想いを馳せたいと個人的には思います。

「話したくない、言葉にしたくない」ということの背景にある祖父自身の経験や気持ちは想像することもできないけれど、それでも少しでも何かを知りたいと思い手にした本です。

壮絶な体験を描かれていますが、それでも漫画という媒体で表現できるようソフトに描かれているのだろうと感じる本でした。中身については多くは触れませんが、ぜひ多くの人に知ってほしい歴史です。

Amazonの商品紹介から引用します。

小澤昌一は東洋大学予科生。東京・本郷の下宿先で銃後の暮らしの中にいた。戦況が悪化する昭和20年1月末、突然名古屋から父が上京し、直接手渡された臨時召集令状。
北満州へ送られた後、上官から停戦命令の通達、すなわち終戦を知らされる。実弾を撃つことなく終わった戦争だったが、その後ソ連領の大地を北に向かわされ、ついにシベリアの荒野へ。待っていたのは粗末な収容所と、地獄のような重労働だった。

シベリア抑留の極限状況を生き抜いた著者の父親の実体験をもとに描かれた衝撃作、待望の新装版!

『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、 三浦 みどり)

五冊選ぼうとした中で、日本の本ばかりを読んでいるわけではないのですが、どうしても日本についての本が多くなってしまいました。一冊は日本自体のこととは離れて戦争について考える本を選びたいと考えて、色々と迷う中で選んだのがこの本です。

ノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの作品なので、読んだことがなくともタイトルぐらいはご存知の方が多いかもしれません。

旧ソ連軍女性たちの声を集めた作品です。ソ連では看護士などとしてだけでなく各種兵士としても多く参軍した女性たちがいました。彼女たちへのインタビューをまとめた作品です。『戦争は女の顔をしていない』というタイトルにも表れていますが、当時従軍した女性たちはそこで起こったことや感じたことを従軍した事実を含めて語ることすら許されていなかったといいます。従軍当時の、そして帰還してからの、正負ありとあらゆる感情、体験が生々しく詰まっています。著者は良くこれだけの聞き書きをしてくれたと感じるすごい作品です。

女性たちの語る内容自体からも非常に衝撃を受けますし、タイトルで著者が指摘する通り、戦争というものに関する言説が基本的に男性によるものであり、そうした言説によって当たり前に自分自身の中の戦争についての印象や考えも形作られていたんだなということに気付かされ、そのことにも大きな衝撃を受けました。

ちょうどこの記事を書く直前には電車の中で女性を対象とした傷害事件も発生しています。『戦争は女の顔をしていない』という本は女性差別問題そのものを扱っている訳ではありませんが、女性たちの視点や声が受け入れられてこなかった一つの事象として捉えることもできると思いますし、普段私たちが多く目にする「男たちの戦争」とはまた違った角度から戦争について考えることができる本です。

Amazonの商品紹介から引用します。

ソ連では第二次世界大戦で100万人をこえる女性が従軍し、看護婦や軍医としてのみならず兵士として武器を手にして戦った。しかし戦後は世間から白い目で見られ、みずからの戦争体験をひた隠しにしなければならなかった――。500人以上の従軍女性から聞き取りをおこない戦争の真実を明らかにした、ノーベル文学賞作家の主著。(解説=澤地久枝)

以上、まずは5冊をご紹介しました。

この先の一年もまた本を読み、考えて、追加の本をご紹介していきたいと思います。

 最後までお読みいただきありがとうございました。