淡青色のゴールド

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書評『人間の建設』50年前に行われたあまりに知的な”雑談”

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書評『人間の建設』50年前に行われたあまりに知的な”雑談”

こんにちは。書評ブログ「淡青色のゴールド」へようこそ。本記事は文芸評論の大家小林秀雄と数学者岡潔の対談集『人間の建設』の書評記事です。

 

 

どんな本か?50年前に行われたあまりに知的な雑談

読み終えてから調べてみたところ、最初にこの対談が出版されたのは1965年(昭和40年)だそう。もう50年以上前です。本書のあらすじには次のように書かれています。

有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談である。学問、芸術、酒、現代数学、アインシュタイン、俳句、素読、本居宣長、ドストエフスキー、ゴッホ、非ユークリッド幾何学、三角関数、プラトン、理性…主題は激しく転回する。そして、その全ての言葉は示唆と普遍性に富む。日本史上最も知的な雑談といえるだろう。 

有り体にいえば雑談である、と。テーマを決めずにとりとめなく話をしたという意味では確かに雑談なんでしょうけどね。あまりに洗練されています。教養ある大人の会話とはこういうものなんでしょうか。

雑談とはいえ日本最高峰の頭脳による雑談です。50年前の会話なのかと噛み締めてみると改めてその遠さにおののきますね。年月も、会話の深さも。

 

1965年とはどんな年だったか 

1945年に終戦してから20年。経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれたのは1956年です。戦後復興期の終わりからさらに10年が経過し、日本は先進国に追いつけ追い越せの精神で高度経済成長を驀進している最中です。

1965年の出来事としては以下のようなものが挙げられます。

  • ベトナム戦争(1955〜1975年)にアメリカが本格介入して数年。日本では北爆に反対する動きから「ベトナムに平和を!市民連合」が組織されるなど反戦運動が行われる
  • 日韓基本条約の締結
  • 佐藤首相、太平洋戦争後総理大臣として初めて沖縄県訪問(沖縄の本土復帰は1972年)
  • 朝永振一郎のノーベル物理学賞受賞が決定
  • 日本最初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』放送開始
  • 中国で文化大革命が始まる

経済的な発展が続く中でも戦争は未だ過去のものではなく、戦後処理が続いていたことや世界情勢は東西冷戦の中で動いていたことなどが分かりますね。この対談自体はあくまでも「雑談」ですので、当時の政治状況等を直接テーマにしたものではありませんし、むしろ時代や社会状況を問わず50年後の私たちにも示唆に富む視点が多く含まれています。それでも、そうした雑談が、戦前から戦中、そして戦後と時代の移り変わりを経てきた2人の天才的頭脳によってなされているものであることを思いながら読むことで、一層感じられることがあるように思います。

 

ここからは本書の中で語られたさまざまな話題の中から個人的に特に興味深かった点んいついて紹介していきます。

 

哲学における時間問題への数学者の軽やかな回答「時間は情緒に近い」

まず面白いと感じたのは岡さんの「時間」というものについての感覚です。岡さんは次のように語ります。

岡:

時あるがゆえに生きているというだけでなく、時というものがあるから、生きるという言葉の内容を説明することができる。

時というものがなぜあるのか、どこからくるのか、ということは、まことに不思議ですが、強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです。
時というものは、生きるという言葉の内容のほとんど全部を説明しているのですね。

岡潔の時間論。「時」という概念と「生きる」という概念はともに存在するものであり、それぞれ互いを説明すべき存在である、と。これは哲学的にはある程度一般的な問題に絡むお話ですね。

哲学における時間問題というのはなかなか面白いものです。考え始めるとどこまでも難しい問題ですが、端的に「時間って何だろう」と考えたことのある人は少なくないでしょう。

私たちは「生きて」います。生きている、というのが何なのかというのはまた難しい問題ですが、一つの考え方として「いま」というこの瞬間を認識していること、という風に考えることができます。「いま」を認識するということはそれと同時に、過去や未来について考えられるということでもあります。つまり時の流れを認識できるということですね。しかし、未来も、過去も実際には存在しません。私たちの頭の中の何らかの物質が適当な形で結びつき作用することで、過去やら未来やらを想起することはできますが、それ自体が過去や未来の在ること、とは違います。そうした頭の中の物質はあくまで、「いま」存在する物質だからです。こう考えると、時間には「いま」しか存在しないことになります。「いま」を認識するという意味での「生きる」とは、「いま」という時間と通じる概念となります。「いま」という時は、生きている私たちが認識するものであり、また、「生きる」とは「いま」というこの瞬間という時を認識することであるということ。

こうして考えてくると「どこもかしこも現在しかないじゃないか。だとしたら時間とは何だ?」という問題たどり着きます。この問題に切り込んだ哲学巨人はサルトルです。確かサルトルはこの問題と非常に苦しげに闘っていたのですが、岡さんの切り口はサルトル的な問題提起に触れつつも非常に軽やかです。「時間は情緒に近い」と。なんというきれいな言い回しでしょう

ただ、軽やかできれいだけどいまいち意味はとりにくい部分があります。「時≒生」という哲学命題に続いて「時≒情緒」を打ち立てられますと、単純な三段論法で考えると岡さんは「生≒情緒」という捉え方をしてるのか、と導かれます。しかしこれはどういうことなんでしょう。この段階ではあまり意味が分かっていなかったのですが、「情緒」というのはどうやら岡さん的にはとても大切なキーワードだったようです。あとでもう一度出てきます。

 
 

文芸評論の大家は「伝記からはいる」

続いて小林秀雄の発言からも興味深かったものをご紹介します。
小林:
ぼくは専門の知識はわかりませんから、ああいう人に興味をもつと伝記を読むのです。ニュートンだってわからぬから「ニュートン伝」を読みます。やはり人間は、科学をやろうが、数学をやろうが、伝記というものがありますからね。そっちから人間が出ていますからな。それでいろいろわかるのです。ぼくら言葉のほうの男は、表のほうからはいるわけには行かないから、裏口からはいるのです。
これは同感します。と言っても私自身はいわゆる伝記というのはほとんど読んだことはありません。私の場合、新しい作家に触れる場合にまずはエッセイを探してみることがあります。人となりが出ている気がするんですよね。その人なりの世界の見方や感じ方を知ることができますし、どういう考えでその人の本職の仕事(作品)があるのかが分かります。伝記という他人の書いたものより本人自身の言葉を読みたくもなりますし。ビジネス系だと昔は良く創業記みたいな本もよく読みましたが、最近はそこら辺を本で読むより、もう先にネットでインタビュー記事なり、本人のブログなり読んだりする方が早いですね。まったく興味のない人だったけど情熱大陸見て人間を知ったらその人の仕事にも一気に興味がわいた、というような感じだと思いますので、ここはわりと多くの人が共感するポイントじゃないかと思います。
 

ドストエフスキーは悪人である

続いて話は文学に飛びます。

小林:
ドストエフスキーは悪人である。無明の達人です。
岡:自分の中に両極を持って居たんでしょうな。悪い方の極がなかったら、よい方の極もよくわからないといえるかもしれませんね。 

文芸評論家の小林秀雄はともかくとして、岡さんも相当な読書家なようで、ドストエフスキーやトルストイの話が盛り上がります。文学も二人ほどには読んでないし、無明やら我やらといった仏教用語もあまり詳しくないのでお二人の話すポイントをあまり敏感に感じ取れなかったのがものすごく残念なのですが、上記引用した「ドストエフスキーは悪人である」「自分の中に両極を持っていた」という捉え方はとても興味を引きました。というのも、先ほど人物からはいるのが好きだという話を書きましたが、ドストエフスキーに初挑戦した時はまだそういう入り方をしていませんでした。学生時代に何も考えずに、何も知らないままに『罪と罰』に突撃して「ロシア人ってのは名前が長いんだな」という超強烈な印象だけが残っていて、面白さはまったく感じられなかったので、そのうち再戦を申し込みたいと思っていたのです。それに対戦に敗れはしたものの「良心の呵責」であったり、「悪人の描く良識」というあたりのテーマは個人的に非常に興味のあるところだったので、今回まさにそういう文脈で語られているのを見つけて改めて読んでみたいと感じたのでした。

実際本書を読んだ後にドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読み、いまでは最も印象深かった本の一冊になっています。

 

情緒、あるいは世界の始まり

前半で少し登場した岡さんの「情緒」についての議論が再登場します。特に面白かったと感じたポイントです。

岡:
愛と信頼と向上する意思、だいたいその3つが人の中心になると思うのです。
そこで私が言う情緒ですが、人が生まれて生い育つ有様を見ていて、それがわかると、人というものもかなり分かるのではないかと思うのです。一人の人の生まれた時の有様を見れば、あるいは世界の始まりも見えてくるのではないかということも思います。
世界の始まりというのは、赤ん坊が母親に抱かれている、親子の情はわかるが、自他の別は感じていいない。時間という概念はまだその人の心にできていない。―そういう状態ではないかと思う。

時間のお話のときに登場したキーワード「情緒」がここでまた出てきます。そして世界の始まり、と。またすごいキーワードを提示しますよね。岡さんのいう「情緒」というのはその人の本質を表すもののようです。人格や性質、そして自我なんかとも通じる捉え方でしょうか。情緒とは「その人が何であるのか」という本質である。そしてそれが「世界の始まり」であると。

これはまた難しい概念ですが、前半に出てきた「時≒生」にもつながっているのだと考えます。時とはいまを生きることによって説明できるものであり、世界を認識することができるというのはいまを生きる存在ならではの行為であるといえます。つまり「生きて」いるから「世界がある」のであり、同時に「時」があるということ。生まれたばかりではまだ時間の概念は持たず、それはつまり生きているという概念にもつながらない不思議な時代です。世界の始まりとはそういう曖昧な瞬間にあるんだろう、というなんともロマンチックなテーマです。

哲学的問題を考えているとひたすらに抽象的で捉えにくいところに入っていきがちになるのですが、岡さんの議論がロマンチックで情緒的に感じるのは岡さんの人間観に由来しているのかもしれません。岡さんは人間の本質を「愛と信頼と向上する意思」にあるといいます。これは非常に賛同できる部分です。私自身が児童福祉に10年近く関わって感覚としては分かっていたけどうまく言葉にできずにいたという部分でもあるのですが、最近になってやっと教育理論や発達心理学やその他関連する社会科学の研究ででようやく実証されつつあるテーマです。うまく生きる子とそうでない子の差はどこにあるんだろう、この問題に岡さんは50年前に確信を持って自分の言葉で説明をされていたんですね。すごいです。

 

ということで。話がいろいろに飛ぶという部分はまさに雑談なので、読む人によって気になるところが出てくるのではないかと思います。ものすごく洗練されてはいるけれども、あくまでとりとめのない雑談ということなので、お酒でも飲みながらとりとめなく思考や興味をふらふらさせながら読むのも良いんじゃないでしょうか。 

 

本書に興味を持った方にオススメの本

 春宵十話

本文中でもご紹介しましたが、岡潔さんによるエッセイ集です。本書の発言から岡さんご自身の考え方に興味を持たれた方にはぜひおすすめする一冊です。

 

 カラマーゾフの兄弟

対談の中で二人から「悪人である」と規定されたドストエフスキーの最高傑作。本書を読んだ後にドストエフスキーを読みその面白さを噛みしめることができました。ドストエフスキーは人間観察・人間理解という意味では史上最高の作家だと思いますが、彼の人間観というものは岡さんがいう「人間の本質は愛と信頼と向上する意思」とどのように異なっているか、あるいは共通しているかなどを考えながら読むとより面白いかと思います。

 

 成功する子 失敗する子

人間の本質は「愛と信頼と向上する意思」であると語る岡さんですが、彼のこの言葉は最新の発達心理学等の中でも研究が進んできている分野です。幼児期における「愛着」こそが重要だという議論などはまさに岡さんの言葉と通じるテーマです。教育や子育て等について関心をお持ちの方はぜひこちらの本を手にとって見てください。