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書評『ハンチバック』健常者優位の社会、文化のいびつさを衝撃的な強さで指摘する一冊

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書評『ハンチバック』健常者優位の社会、文化のいびつさを衝撃的な強さで指摘する一冊

こんにちは。書評ブログ「淡青色のゴールド」へようこそ。本記事は市川沙央さんによる第169回芥川賞受賞である『ハンチバック』の書評記事です。大変な話題作となっていますが、本当に多くの人に読んで、考えて欲しいと感じた作品です。

 

内容紹介

『ハンチバック』は市川沙央さんによるデビュー作品であり、2023年5月に文學界新人賞を受賞しています。そして、上記の通り第169回の芥川賞受賞作ともなりました。芥川賞選考会でも大きな話題となっており、各選考委員の選評でもさまざまな視点から称賛を受けています。実際に選評を読んでみたい方は文藝春秋2023年9月特別号を読んでいただくとして、私の手元にある本書の帯には芥川賞の選考委員も務めている吉田修一さんと島田雅彦さんのコメントが掲載されていますのでご紹介します。

弱さが強さに反転している。笑いと知性に満ちた傑作。―吉田修一

健常者をムチ打つ悪態のカデンツァ。爽快極まる露悪趣味。痺れました。―島田雅彦

本作品の主人公は難病を患い、背骨がS字に湾曲してしまう重度の障害を持つ井沢釈華という大学生なのですが、この主人公の持つ症状は著者である市川さんを投影したもので、市川さんご自身が筋疾患先天性ミオパチーという難病を患っており、人工呼吸器や電動車いすを使用して日々の生活を送っています。難病による重度の障害を持つ著者が、自身の姿を投影した人物を主人公として描かれる本作品には障害を持つ当事者だからこその、当たり前に健常者中心に設計されている現代社会に対しての強い視点や言葉遣いが溢れており、多くの人に衝撃を与えています。

Amazonの内容紹介から引用します。

第169回芥川賞受賞。
選考会沸騰の大問題作!

「本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた。」

井沢釈華の背骨は、右肺を押し潰すかたちで極度に湾曲している。
両親が遺したグループホームの十畳の自室から釈華は、あらゆる言葉を送りだす――。

本書をオススメする人

本書は以下のような方に特にオススメです。

  • 自らを健常者と認識する人
  • ダイバーシティ、D&I等のキーワードに関心のある方
  • 広く「福祉」に関わる方
  • NPO等で社会的弱者支援に関わる方

私小説的であること

本作品の大きな特徴の一つは私小説的であることでしょう。先にも述べた通り本作の主人公は著者市川さんご自身を投影した登場人物です。そして本作品の主人公井沢釈華は、健常者中心の社会に対して強い怒りを抱きながら生活を送っているのですが、その怒りもまた著者の市川さんご自身が抱えてきたものであることを芥川賞贈呈式の挨拶で述べています。

怒りだけで書きました。『ハンチバック』で復讐をするつもりでした。私に、怒りはらませてくれてどうもありがとう。

挨拶全文は良ければ以下の記事をご確認ください。

www.businessinsider.jp

障害を持つ当事者として、その当事者性を投影した主人公を描く作品であるということから本作品は私小説的であると言えます。

「的」と断言を避けたのは、私小説そのものの定義が完全に明確ではないということ(私小説の定義や該当作品についてはWikipedia等をご確認ください。私小説 - Wikipedia )と、主人公井沢釈華の思考や感情のどこからどこまでが市川さんご本人の考えと共通したものとして表現されているのかわからないという点があるからです。もちろん私小説はあくまでもフィクションとしての小説ですので、そこで描かれるものすべてを著者自身と同一視する必要はないですし、むしろするべきではないと思います。ただ、本作品の場合、重度障害者という当事者性と健常者優位社会への怒りという主軸があまりにも強力であり、かつその点について著者市川さんご自身の言葉でも作品の外でも語っているために、どうしても作品を読む際にも著者の姿に重ねてメッセージを読み取ろうとばかりしてしまい、作品の細かな部分への洞察や考察が不十分になってしまう恐れもあるのではと感じています。本記事ではあまり長くなりすぎない範囲かつ大きなネタバレはしない範囲で、なるべく掘り下げて考えてみたいと思います。

「紙の本好き」が読書バリアフリーを阻んできた?

本作本の中で特に注目を集めている箇所として「読書バリアフリー」の訴えがあります。

著者と同じ筋疾患先天性ミオパチーを患い背骨に重度の障害を持つ主人公の釈華は読書にも苦痛を感じています。本文から少しだけ引用します。

厚みが3、4センチはある本を両手で抑えて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。

この紙の本を前提とした読書という文化への憎しみや怒りは、先にも引用した芥川賞贈呈式の挨拶やその他インタビュー等で市川さん本人からも繰り返し語られており、市川さんが本作品に込めた怒りの一つは、読書環境を整えて欲しいという当事者の懇願を無視してきた出版界へのものだといいます。

著者本人が語っていることもありますし、作品中での強烈な指摘もあり、大きな注目を集めています。芥川賞、直木賞の受賞作やノミネート作品を毎回しっかり読み込むような多くの「本好き」たちにも衝撃を与えているようで、SNSの読書界隈の本作品への感想でもこの読書バリアフリーに関わる部分への言及が多かったように感じています。

私自身も読書好き、本好きを自認しておりますが、実際読書好きの中には「紙の本こそ」が読書であり、ページを捲る感覚や所有・所蔵することの意義など物理的な存在感に価値を感じている方は多くいらっしゃいます。物理的な本を好むこと自体は個人の好みですが、中には紙の本こそが至上・至高といった考えにまで価値観が固まり、電子書籍やオーディオブックやそれを活用することを貶めるような方も残念ながら少なからず存在します。もちろんそうした考えをSNSの読書垢等で表明している方たちも「何も障害を持つ方が電子書籍やオーディオブックによって読書を楽しむことを否定するつもりはない」とおっしゃる場合が多いでしょう。ただ、そうした多様な人の存在がそもそも想定から漏れた状態で「紙の本至上主義」的な考えが醸成され、表現されてきたことや、そうした考えが出版業界自体にも強く共有され、現に読書バリアフリーが進んできていないことに、多くの健常性を持つ読書好きは責任の一端を持ってきたことには自覚と反省が求められるでしょう。

ちなみに本作品は出版後すぐにオーディブル等のオーディオブックにも収録されています。本記事執筆に際してオーディオブック版も少し聴いてみたのですが、冒頭にオーディオ版として楽しめるように配慮されている旨の著者の市川さんからのメッセージが入っておりました。

紙の本もオーディオブック版も(本作品では読んでないけど電子書籍版も)すべて読むことができ、使い分けて活用している健常者の私としては「オーディオブック版は紙版とはまた違った印象があって楽しい」などと気軽に感じてしまうのですが、このことも私自身のマチズモからくるものでしょうか。みなさんはどう考えますか?

ネットカルチャー的な”馴染みのない”言葉への戸惑い

本作品の主人公釈華は親が”終の住処”として残した介助付きの障害者グループホームで生活をしながらネットメディア等のライターとして活動しています。本書の書き出しはそんな釈華が書いている記事の文章から始まるのですが、その記事はなんとハプニングバーを体験取材したことを紹介する記事です。もちろん重度身体障害者である釈華が実際に取材ができるわけではなく、ネット上で調べたことや想像のみで書き上げた記事です。このように実際の調査や取材に基づかずにネット上やテレビ等で見聞きしたことを元に書き上げる記事のことをコタツ記事といいます。私自身は仕事としてインターネット広告やWebマーケティングに関わってきたこともあって、コタツ記事というもの自体は以前からよく知っておりましたが、仕事でインターネットに関わってきたわけでもなく、ことさらにインターネット文化に深く馴染んてでいるというわけではない方であればコタツ記事という単語自体を本作品で初めて知ったという方もいらっしゃるでしょう。

本作品にはその他にも必ずしも多くの人が当たり前に意味・内容や文脈を知っているわけではないだろうという単語がいくつも登場します。釈華が書くコタツ記事の題材として登場しているハプニングバーもそうですね。ハプニングバー自体は物語の展開上重要なものではありませんが、物語の展開や登場人物の心情理解のためにそれなりに大きな役割を果たすものとしても「インセル」「マチズモ」といった単語が登場します。

言葉の意味についてはそれぞれの解説記事をご確認ください。

コタツ記事( コタツ記事 - Wikipedia )

インセル( インセル - Wikipedia

マチズモ(マチスモ)( マチスモとは? 意味や使い方 - コトバンク )

男性優位主義のことを表すマチズモについては、ジェンダーギャップ等に関心のある方であれば聞いたことがあるかもしれませんが、インセルについてはかなりネットカルチャー色の強い単語なので聞いたことがなかったり、聞いたことはあっても使用される文脈まではイメージがつかないという方も多いのではないでしょうか。

実際私はそれなりにインターネット文化にも馴染んでいる方だとは認識していましたが、本文中でインセルの単語を見つけたときに「あれ、これ何だったっけな」と思い、スマホで検索して意味を確認し直しました。上記で引用したWikipediaにも記載がありますが、日本においては同じような意味や文脈で使われる「非モテ」「弱者男性」であればスッと掴めたなぁなどと思いながら、それらと近しい単語であるということが普段私が利用するメディアやコミュニティではほとんど登場しないためにパッと意味合いが思い出せなかったのです。

私のように「聞いたことはあるけど…」という方もいれば、「まったく聞いたことない。どういう意味だろう?」という方もたくさんいらっしゃるでしょう。そしてそういう知らない単語が一つではなく、複数続けて、しかも特段の説明はなく当たり前の単語のように登場して物語が進行していく中で、いちいち意味を調べながら読むという方はどれくらいいるでしょう。あまり多くはないのではないでしょうか。これは本作品に限らず、そして単語に限らず、読み方がわからない漢字が登場したときにも同様のことが言えます。

実際、X(旧Twitter)の読書垢(「垢」これもネットスラングの一つですね。アカウントという意味です。読書アカウントは主に読書のことに限定して投稿を行うSNSアカウントのことを指します。多くの◯◯垢と呼ばれる趣味アカウントでは、同じような趣味垢同士でフォローしあって趣味に関わるコミュニケーション中心にSNSを活用します)で本書の感想投稿を見ていると上記のような単語遣いを挙げて「私には馴染みのない世界の話が多く、よくわからなかった」という感想をいくつも見かけました。

ただ「馴染みがないからわからない」というのは小説の感想としてはやや違和感を感じるものでもあります。読者が馴染みのない単語やそれらが使われる世界や感覚、感情について描かれるというのは小説としてはむしろ当たり前すぎることだとも言えるからです。例えばミステリー小説やSF小説、ファンタジー小説、時代小説など小説の主要な作品分野を思い浮かべるだけでも、読者にとって馴染みのないことが描かれる事自体が特別なわけではありませんし、だからといって「馴染みがないからわからなかった」という感想が多くなるということはあまりないでしょう。(もちろん文章や筋自体が難解であるが故にわからないということはしばしばあるでしょうが)

ではなぜ本作品においては「わからない」という感想が多くなるのでしょうか。その原因は文章や筋の難解さということではなく、上述したような”馴染みのない”単語が特段の説明なく使われているということが本作品の特徴であり、少なくない読者を戸惑わせた要因になっているのでないかと感じています。作品の会話に登場する単語はその世界やその文脈で生きる登場人物にとっては「当たり前」のものですが、それが地の文においても特段の説明がないまま物語が進行していくということは、読者にとっても説明するまでもない当たり前のものであるというメッセージを発する(読者としてはそのようなメッセージを受け取る)ことであり、当たり前とされるものを知らない自分を自覚させられるという部分に(しかもそのことが悪いとあからさまな糾弾がなされるわけでもないということに)居心地の悪さを感じた読者が多くいたのではないかと推測しています。

”馴染みのない”言葉選びの意図は何か

もう少しこの”馴染みのない”言葉選びについて考えてみましょう。なぜ市川さんはこのような”馴染みのない”言葉を説明もなしにあえて多く使ったのでしょうか。

コタツ記事のライターをしているという主人公釈華や、他の重要人物として登場するヘルパーの田中などの人物設定上の成り行き(かれらはたまたまそういうことに馴染みのある人物だった)として理解することもできますし、あるいは著者である市川さん本人が当たり前にネットカルチャー的なものに親しんでいるためであると理解することもできます。色々な解釈がありえますし、本当のところはもちろんわからないのですが、私は障害を持つ当事者のツラさや感情などが健常者に理解されないという構図を皮肉的に表現しているのではないか、と読み取りました。

どういうことか、もう少し掘り下げます。本作品の中で描かれているのは重度の身体障害を持つ主人公であり、本作品では人工呼吸器を使用した生活や、ヘルパーに食事や入浴の介助をしてもらう様子なども描かれています。その描写の中には「カニューレ」「カフ」「パルスオキシメーター」などの専門用語も登場しますし、身体障害者としてどのような辛さや不満を感じているのかといったことも描かれていますが、これらの単語や感情等も身近に人工呼吸器を使って生活している方がいなければわからない「馴染みのない」世界であり、単語であり、感情です。「馴染みがない」という点では先に紹介した「インセル」等とまったく変わりません。

では、ネットカルチャー的な言葉遣いを「馴染みがない世界のことでよく分からなかった」という感想で切り捨ててしまう態度は、障害を持つ当事者に対しては変わるのでしょうか。私はここに、「変わらないよね?同じようにわからないと通り過ぎてしまえるんでしょう?」という著者の皮肉的なメッセージが込められているのではないかと感じてしまいます。

言葉遣いの馴染みのなさを「わからない」と切り捨てながら、わかりやすく感じられる「読書バリアフリー」の文脈だけに注目して「気付かされた」「考えさせられた」という感想で終わってしまって良いのでしょうか。

もちろん「読書」という多くの健常者にとっても馴染みある文化に注目して訴えるというやり方だからこそ「気付かされる」人が多く存在するのですし、市川さんのその後の発言等を見てもそうした効果を狙っている部分も大きいとは思うのですが、それでも考えたいポイントだと感じたのは本文中に以下のような表現があったからです。

苛立ちや蔑みというものは、遥か遠く離れたものには向かないものだ。

「馴染みがない」「わからない」世界や単語、感情をそのままにしてしまう「無関心」という態度。本作品では読書を題材としてその健常者中心の無関心を貫くことのできる態度を読書におけるマチズモであると喝破していますが、当事者として気づき、考えて欲しいと願っている部分はそれ以外にもたくさん示され、広がっているのではないかと感じました。ぜひ本作品全体を通してどのように感じるか、多くの皆さんに考えてみていただきたいです。

露悪的であるという評について

さて、だいぶ長くなってきてしまいましたので最後にしたいと思います。最後に考えたいのは本作品の感想や評としてしばしば「露悪的」という表現が使われていることについてです。

本記事前半の「内容紹介」には帯に掲載されている島田雅彦さんの評を引用しましたが、ここでも露悪的という表現が使われています。

健常者をムチ打つ悪態のカデンツァ。爽快極まる露悪趣味。しびれました。

例えばすでに述べたように「紙の本」が良しとされる文化に対しての訴えも、障害者の状況や辛さに無自覚な健常者に対してかなり強い非難がなされていますし、物語の中心部分にも関わるため詳しくは述べませんが、主人公釈華が抱いている「性や出生」に関わる願望にも倫理的な側面から戸惑いや嫌悪感を覚えさせてしまうような表現があります。

私が考えてみたいのは、露悪的な表現をせざるを得なかったのではないか、という点です。

先にも引用した芥川賞受賞挨拶で市川さん本人が述べているように本作は市川さんの「怒り」が込められている作品です。市川さんご本人がこれまでに感じてきた不満や憤りが発露されたのが本作でしばしば「露悪的」と評されるような表現に繋がっているということです。

そもそもなぜ市川さんが怒りを持つようになったかといえば、例えば読書バリアフリーを訴えるような障害を持つ当事者としての声が、出版業界や、広く言えば健常者中心の社会に無視されてきたからです。静かに要望を伝えるだけでは無視されてきた中で、露悪的で強い態度を取らざるを得なかったという側面があるのではないか、という点も私を含む健常者は考えなくてはならないのではないかと感じます。

また、本作品の表現が殊更に「露悪的」と評されることの背景にはそもそも障害者は真面目、優しい、おとなしい、というようなステレオタイプな捉え方があるのではないかという点も考える必要があるでしょう。当たり前の話ですが、私たち一人ひとりの性格や特質には個人差があり、いい人もいれば嫌な人もいて、そこに障害の有無は本来関係ありません。であるにも関わらず、障害を持つ当事者からの”意外な”強い表現に対して「露悪的である」と感じてしまう人が多いのだとしたら、その感覚自体に私たちの偏見が隠れていることを顧みる必要があるのではないかと感じます。

もちろん本作品の表現が強く、露悪的であるということ自体が間違った評であるということではありません。実際露悪的であるとは私も思いますが、そのように感じる自分自身の立ち位置や感覚は本当にフラットなものなのか、考えてみることが必要なのではないかということです。

以上、他にも考えてみたい点はあるのですが、長くなりましたのでここまでにしたいと思います。ぜひ多くの人に読んで、考えてみていただきたい作品です。どのような感想を持ったのか、どのようなことを感じたのか、多くの人と語りながら私自身もさらに考えていきたいと思っています。

『ハンチバック』を読んだ人にオススメの本

最後に本書を読んだ方や興味を持った方にオススメの本をご紹介します。

渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』

まず一冊目は2018年に映画化もした『こんな夜更けにバナナかよ』です。映画化にあたりノベライズもされておりますが、今回オススメしたいのは元々の原作となっている本で、筋ジストロフィー症患者でボランティアを自ら募りながら自立生活をしている鹿野さんと彼を支える多くのボランティアたちを取材したルポルタージュ作品です。本作品の最大の特徴は著者の渡辺さん自身が単に外部者として取材をするというだけではなく、取材をする中で徐々に自分自身がボランティアにも参加するようにもなり、鹿野さんと深く関わっていく中で障害についてや人を助けるということについて深く葛藤していく姿が濃く文章化されていることです。『ハンチバック』が障害を持つ当事者の目線での作品だとすれば、『夜バナ』は障害者に関わる(しかも障害者と関わる経験をほとんど持ってこなかった)健常者の側の視点の作品です。また、本作の主人公の一人である鹿野さん自身も強烈なパーソナリティを持つ人物で、象徴的なタイトルのエピソードも含め、支援する・されるとはどういうことなのかを深く考えさせられる作品です。

私自身が福祉系のボランティアに従事していた学生の頃からの愛読書で、書評も書いております。

daisuket-book.hatenablog.com

 

河合香織『セックスボランティア』

続いてご紹介するのも私が大学生の頃に読んだ作品です。しばしばタブー視されてしまう障害者の性の問題に関して、障害者やその支援者が実際にどのように向き合っているのか、また障害者に関わる風俗サービスなども含めて取材しらルポルタージュ作品です。『ハンチバック』でも障害者の性の問題が扱われていますが、現実としてどのような事例や問題があるのかを知ることができます。

山本譲司『累犯障害者』

三冊目にご紹介するのも大学生の頃に読んだ作品です。『ハンチバック』と合わせて読むと面白そうな作品ということで色々思い返してみると、学生の頃に障害に関わるテーマの本をいくつも読んでいたんだなということを改めて振り返る機会になりました。

さて、本作品のテーマは障害者×犯罪です。近年では『ケーキの切れない非行少年たち』という本も話題になりましたが、現在の司法制度は基本的に健常者中心に設計されており、福祉のセーフティネットから漏れてしまった人たちに対して、適切な支援、いえ、支援以前にそもそも関心が持たれていないのではないかということを強く考えさせられる作品です。『ハンチバック』では読書という多くの人にとって身近な題材を元に健常者優位の社会の問題点が描かれますが、犯罪や司法といった非日常の重要な社会制度についてもやはり健常者優位で設計されていることを改めてつきつけられます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

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