本から本へつながる書評ブログ『淡青色のゴールド』

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書評『<責任>の生成』意志を持つこと、決定すること、責任を持つこと。そしてそれらを支援すること。

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書評『<責任>の生成』意志を持つこと、決定すること、責任を持つこと。そしてそれらを支援すること。

こんにちは。書評ブログ「淡青色のゴールド」へようこそ。本記事は『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』の書評記事です。中動態という概念について知りたい・考えたい方や対人支援等の中で支援する・される関係について考えたい方などにはぜひ読んでいただきたい一冊です。

 

内容紹介

本書は哲学者の國分功一郎氏と当事者研究などを専門とする熊谷晋一郎氏による対談形式の講義を書籍化したものです。テーマは本書のサブタイトルにもある通り「中動態」と「当事者研究」です。

中動態は國分氏が『中動態の世界』という書籍で言語・文法としての歴史や特性を丁寧に掘り起こした文法規則です。「する↔される」という「受動↔能動」の関係だけでは捉えられない視点や認識、あるいは人間関係の中でのあり方を中動態という現在は言語の表舞台からは消え去ってしまった文法に光を当てることで捉えることを試みるのが國分氏の中動態研究でした。本書ではそんな國分氏の『中動態の世界』やその後出版された『暇と退屈の倫理学』などで扱われたテーマを参照しつつ、熊谷氏の専門である当事者研究を題材に、「支援する・されるという関係」「意思や責任という概念について」「主体や他者、そして社会について」など対談講義ならではで派生する話題を次々と深堀りながら話が進んでいきます。

対談形式ということで、『中動態の世界』に比べるとかなり読みやすいですし、中動態という概念自体の説明も本書の方がこなれていてポイントをつかみやすいかと思いますのでおすすめできる一冊です。

Amazonの内容紹介から引用します。

わたしたちが“責任あるもの”になるとき―『暇と退屈の倫理学』以降、お互いの研究への深い共鳴と応答、そしてそこから発展する複数の思考を感受し合いながら続けられた約10年間にわたる共同研究は、堕落した「責任」の概念/イメージを抜本的に問い直し、その先の、わたしたちが獲得すべき「日常」へと架橋する。この時代そのものに向けられた議論のすべて、満を持して刊行。

本書の構成

本書は以下のように構成されています。

まえがき 生き延びた先にある日常 國分功一郎
序章 「中動態」と「当事者研究」
第一章 「意思」と「責任」の発生
第二章 中動態と「主体」の生成
第三章 自己感・他者・社会
第四章 中動態と「責任」
おわりに 熊谷晋一郎

本書をオススメする人

本書は以下のような方に特にオススメです。

  • 中動態という概念について知りたい方
  • 介護・看護・医療・教育などの対人支援に関わる人
  • 責任や意思について哲学的な観点から考えたい人
  • 当事者研究に関心がある人

中動態とは何か

中動態という概念を用いて、どのようなことが考えられるのかということを当事者研究を題材に考えを深めていく本書の中では、議論の前提として國分さんから中動態の定義が簡単に解説がなされます。

『中動態の世界』でも深く掘り下げていた言語学者バンヴェニストの言葉を引用しながら次のように解説しています。

ひとことで言うと、能動態と中動態の対立においては、「する」か「される」かではなくて、「外」か「内」かが問題になっているということです。主語が動詞によって名指される過程の内部にあるときには中動態が用いられ、その過程が主語の外で終わるときには能動態が用いられた。

例としてギリシア語の「ブーロマイ」という中動態だけをとる動詞が紹介されます。意味は「私は欲する」。欲するという過程は「私」という主語を場所としているため、中動態で扱われていた、と。現在の能動態と受動態が「する」「される」の対立であるのに対して、能動態と中動態の対立は「外」と「内」の対立であったというのはわかりやすい整理です。中動態(middle-voice)という名称からは能動態と受動態の間にあるような印象を受けてしまいやすいですが、そもそもの視点や捉え方が異なるということを認識すると非常に理解しやすくなります。

すべてを「する・される」の関係で捉えられる訳ではないというのは少し考えれば当たり前のように感じます。本書の中では上記の「私は欲する(I want)」以外に「惚れる」という単語についても紹介されており、現在ではどちらも能動態で理解されるものですが、何かを「欲する」という感情や誰かを「好きでいる」ときに「欲しよう」「好きになろう」という能動的な意思を持っているのかと言われると、そうではないということは「恋に落ちる(fall in love)」という言い回しが存在していることを思い浮かべるまでもなく、感覚的に理解する人が多いのではないでしょうか。

にもかかわらず、社会的にというか公的にというか、現代社会においては基本的にすべてが能動と受動に割り切れるという前提、建前で運営されており、それが多くの人たちにとって息苦しい世の中になっている原因ではないかと感じます。では、何をどこから考えていけば良いのか。本書では現代社会での生きにくさ、息苦しさを敏感に感じている人たちが取り組み、切り開いている当事者研究を題材に思考の掘り下げが進んでいきます。

中動態と当事者研究の相性の良さ

本書を読んだことによる個人的な一番の収穫は当事者研究についての視界がグッと広がったことです。

『中動態の世界』『言語が消滅する前に』『暇と退屈の倫理学』と國分さんの本を読み進めてきた私としては本書も「中動態」という概念について考えたいという動機で手にしたのですが、改めて当事者研究というものに関心を深めるきっかけとなりましたし、中動態研究と当事者研究の相性の良さのようなものについても考えるきっかけになりました。

特に面白いと感じたのは「外在化」です。外在化とは以下のような当事者研究の肝となる方法論的態度です。

「困った行動をとったあの人が悪い」というかたちで、いわば問題行動と本人をくっつけてしまうのではなく、問題と本人を切り離して、行動を降雨のような出来事として眺め、研究のテーブルに載せていき、みなでワイワイガヤガヤとそのメカニズムを探っていく、これが当事者研究の大事な方法として採用されました。

 けれども不思議なことに、一度それらの行為を外在化し、自然現象のようにして捉える、すなわち免責すると、外在化された現象のメカニズムが次第に解明され、その結果、自分のしたことの責任を引き受けられるようになってくるのです。このことが当事者研究によってわかってきた。とても不思議なことですが、一度免責することによって、最終的にきちんと引責できるようになるのです。

これはまさに先に紹介した中動態的な捉え方であると言えますね。起こっている行為を受動態と対立する意味で能動的にしたことかどうかではなく、自分自身の外側で起こっていることという意味(中動態と対立する文脈での能動態)で捉えるということ。面白いのは、そのように一度自分自身の外側で起こったこととして認識するという過程を経ることで、結果的に自分自身がやったことの責任を引き受けられるようになることが多いということ。

中動態研究に対しても、当事者研究に対しても、「無責任を助長する」というような批判があるようですが、実態としてはむしろ逆であるというのは面白いですし、炎上が日常茶飯事になっている昨今では非常に重要な視点であるように感じます。

炎上し反省・謝罪を過剰に求める社会の風潮と中動態的な「覚悟」

最近、SNSやニュースを見ていると、非常に疲れます。毎日のように誰かが炎上し、謝罪を強要されています。(ので、趣味アカウント以外はタイムラインを眺めることをほとんどやめてしまいました)

「責任を取れ」「謝罪をしろ」という言葉が繰り返し使われますし、実際に「責任をとって」役職や社会的な立場から退いたり、事業やサービス等を中止したりといったことが日々、行われています。しかし、そこで求められていることや行われていることは本当に「責任を引き受ける」ということなのでしょうか。私にはそのようには感じられません。

謝罪や反省、そして辞職等を求めている側もしている側も、本当に責任を引き受けるということやその態度とはどういうことなのか、は置き去りにしたまま、誰か攻撃する先を探して、血祭りに上げては少しだけ溜飲を下げ、また次の攻撃相手を求めて粗探しが続けられていく…。そんな社会の風潮に嫌気が差している人は少なくないと思うのですが、それでも能動的な意思や責任のあり方は社会の建前として強固にあり続けています。

能動と受動を対立させる言語では、行為における意思を重要視し「自分の意志でやったのか?それともそうではないのか?」の確認を強く尋ねる性質を持ち、國分さんは現代社会のこの言語の性質を「尋問する言語」と呼んでいます。尋問する言語によって思考が形成された私たちがつくる尋問する社会。尋問する度合が高まれば高まる程、自己責任論を当然のあるべき姿と考える人も増えるのでしょう。

本当は「意志」があったから責任が問われているのではないのです。責任を問うべきだと思われるケースにおいて、意志の概念によって主体に行為が帰属させられているのです。

意思をもってそうしたわけではないこと、意思を持てるような状況・環境ではなかったことはわかり切っていたりするのに、そのことは棚上げされて「責任」が求められている。うんざりしますね。では、何をどこから考えていけば良いのでしょうか。

当事者研究と中動態はここに切り込む一つのきっかけになりうるのではないかと感じます。先にも引用したように、当事者研究の「外在化」という基本的な態度を経ることで、自分のやった行為を自分自身のものととして引き受けるということが起こると言います。

本書の終盤で、この過程について國分さんが「覚悟」という言葉を使っていたのが非常に印象的でしたし、腑に落ちる表現でした。

僕は意志とセットにならない責任のあり方として、覚悟のことを考えています。覚悟と意志は似たような印象を受けるけれども、まったく異なるものです。覚悟というのは過去から今へと続く流れ、別の言い方をすると運命のようなものがあって、その運命を我がものとするということです。こんなはずじゃなかったとか、これはこれは自分のことじゃないということではなくて、運命を我がものとして生きてゆく。

「意思や意欲を持ってもらうこと」「意思決定を支援すること」をどう考えるか

私は普段、NPO等の非営利組織のコンサルティングを生業にしています。「支援する・される」との関係で言えば「(受益者を)支援する人を支援する」という関わり方です。(対人支援等に関わる支援者の育成やサポートを特に指して支援者支援という言い方をする場合もありますが、私の仕事は支援者支援よりは中間支援と呼ばれるものに該当することが多いです。まぁ自分自身の仕事の呼び方にはあまりこだわっていませんが)

非営利セクター(だけに限りませんが)で最近重視されているのが、事業や活動の「成果(outcome)」です。実施回数や参加人数等の定量的に数えやすいものを事業の「結果(output)」としたときに、「成果(outcome)」はそうした事業を実施したことによって、対象者がどのような変化を起こしたのか(あるいは起こせば良いと考えるのか)を定義するものです。事業や活動をより良いものにしていくためにという観点での検討や話し合いを行う際に、この「成果(outcome)」をどのように定義するかを考えていただくという場面が多くあります。その際に、受益者の望ましい変化として「意志や意欲を持ってもらう(例えば子どもへの学習支援の活動で「学習意欲が向上する」という変化を成果として定義するなど)」「意思決定を促す(例:進路を自己決定する)」などが検討される場合があるのですが、意志の存在やその強固さを前提として活動の成果を定義したり測定したりしようとすることは、やり方によっては非常に暴力的なことになってしまう危険性についても改めて考えさせられました。

熊谷 例えば、「意思決定支援」というプロセスのなかで、知的障害とされる方が執拗に、「オレンジジュースとウーロン茶、どちらが飲みたい?」と支援者に聞かれる場面に遭遇します。

國分 そうやって「決定」を相手任せにすることにどういう意味があるんだろう。

熊谷 もちろん支援者の一部ですが、実際にそういった現場に立ち会ったことがあります。そもそもオレンジジュースかウーロン茶かというのは「意思決定」でもなんでもなく、単なる選択であるわけです。「意思決定」という概念を無批判に受け入れたままだと、簡単にこんなことになりかねない。では「意思決定支援」とはどうあるべきなのか。(中略)

國分 「意思決定支援」という考え方については、僕もいろいろと思うところがあります。順に説明します。まずこのような考え方が出てきた背景には、患者あるいは被支援者がこれまで治療・支援における決定プロセスから排除されてきたということがある。自己決定権、あるいは、この連続講演の冒頭で述べたように「主権」と言っても良いかもしれませんが、それが無視されてきた。パターナリズムという言葉でこれを説明してもいいでしょう。パターナリズムがもたらした排除への反省から「意思決定支援」という考え方が出てきたことはよくわかります。その意味ではこうした考え方が出てきたこと自体は歓迎しなければならない。

しかし、現在の僕らの考え方を支配している意志の概念や、僕らが使っている言語といったものが、この排除への反省に制限を加えてしまったことを指摘しなければなりません。それ以外のオプションが概念として与えられていなかったのだから仕方ないのかもしれませんが、この反省は結局、意志の概念に寄りかかるものとなってしまった。その結果、どうなっているかというと、「意思決定支援」は、限りなく、治療する側や支援する側の責任回避の論理に近づいてしまっている。

これは非常に重要な議論だと感じます。非営利、ソーシャルセクター全体における成果志向の動きは、大口ドナーなどの資金提供者側の要請に応える側面から出てきているところも大きく、対人支援分野における成果についての議論だったとしても、支援現場における細かな行為や言動のあり方やその変化にまでは踏み込まずに済まされている場合も少なくありません。しかし、「成果」の議論自体を何の目的で行うかにもよりますが、より良い支援、より良い活動とは何かということを考えていくためには、上記のようなパターナリズムへの反省の経緯や、行動変容・内面の変化をどのように定義し、促していけばよいのかを関連する諸分野の議論の歴史も踏まえて考えていくことは非常に重要でしょう。福祉分野においては「最善の利益」という考え方も重要な概念として存在しますが、必ずしも専門的な学習や経験を積んだ人材ばかりではく、ボランタリーな非専門的人材も多く関わる余地のあるNPO等の現場で、こうした議論をする際には人権についての基本的な発想も含めて丁寧な議論が求められますが、中間支援を行う立場からすると支援期間も方法も限られている中では難易度が高すぎるなと頭を抱えたくなる部分もあります。

もちろんすぐに明確な答えを求めているわけではなく、本書を通して色々な角度から考える視点を得られたことは大きな収穫で、例えば被支援者の行動や意識の変容に支援者も一緒に関わっていくようなニュアンス(責任の一部を一緒に引き受けるような感覚)を考える視点として、國分さんの以下の発言も参考になるものでした。

僕は決定的な答えを持っているわけではないのですが、「意思決定支援」という言葉に代えて、「欲望形成支援」という言葉をもってくることを提案しています。意志(意思)ではなくて欲望。決定ではなくて形成です。人は自分が何を欲望しているのか自分ではわからないし、矛盾した願いを抱えていることも珍しくない。だから、欲望を医師や支援者と協働で形成していくことが重要ではないか。

活動の成果を議論・検討し定義するプロセスの中に、支援者と被支援者の協働的な参画を埋め込んでいくような表現の仕方、それを促してみることを、考えながら今後の(中間)支援を行っていきたいなと思います。

他にも語りたいところはいくらでもあるのですが、これ以上は長くなりすぎるので止めておきます。ぜひ本書をお読みになった方と議論を深めてみたいです。

本書は、当事者研究や支援・被支援など福祉的な話題が中心的に進んでいく部分が多いですが、福祉的な関心を持っていない方にもぜひ読んでいただきたいです。福祉や当事者研究の視点の持ち方を理解することや当事者研究が社会に問いかけることを考えるということは、「当事者」ではない(という自覚を持つ)多くのマジョリティにとっても、自分を理解しやすくなったり社会を生きやすくなったりすることにつながるだろうと感じますので。

『<責任>の生成』を読んだ人にオススメの本

最後に本書を読んだ方や興味を持った方にオススメの本をご紹介します。

『中動態の世界』(國分功一郎)

本書を読んで中動態という概念について関心を持った方はぜひ『中動態の世界』も手にとってみていただきたいです。対談形式の『<責任>の生成』とは異なり、西洋哲学史上のさまざまな言語学者や哲学者の思想や研究に触れながら中動態や意思という概念の歴史的な変遷を丁寧に掘り下げていく書籍です。内容や扱われているテーマ自体は簡単ではないのですが、國分氏の記述は丁寧で分かりやすく哲学思想自体に詳しくなくても知的好奇心を刺激されながら楽しく読み進めていくことができます。

書評も書いておりますので良ければお読みください。

 

daisuket-book.hatenablog.com

 

『当事者研究の研究』(石原孝二編集)

『<責任>の生成』の本文の中でも触れられている書籍で、本文中で何度も紹介されている綾屋紗月さんも筆者の一人に名を連ねています。タイトルの通り当事者研究自体をテーマとして、その特徴や、一般的な(自然)科学との違い、方法論、哲学や教育学など隣接する領域との関係性などさまざまな角度から当事者研究について扱った論文集です。当事者研究に関心のある方にオススメです。

『ハッピークラシー』(エドガー・カバナス、エヴァ・イルーズ)

『<責任>の生成』の議論では、現代社会においては責任の前提として意志(意思)の存在や意思決定という概念が強固に存在することが批判的に捉え直され、支援する・されるという関係の中における意思決定の支援のあり方などについて考察されていました。意思の存在やその決定の責任を社会の前提としすぎることの問題は必ずしも福祉的な問題だけに限りません。『ハッピークラシー』では幸福が社会の至上価値とされ、幸福を感じ幸福な人生を歩むことが個人の責任として捉えられることの問題点をさまざまな角度から考えることができます。

書評も書いておりますので良ければお読みください。

 

daisuket-book.hatenablog.com

 

『答えを急がない勇気』(枝廣淳子)

支援する・されるという関係について考える際に非常に重要だと考える概念に「ネガティブ・ケイパビリティ」があります。早急に答えを出さずにわからない状態、不安な状態のままでいられる態度のことで、昨今注目度が増しています。本書はネガティブ・ケイパビリティを個人として、組織として発揮していくためにどのようなことができるのかを非常に分かりやすく解説しており「ネガティブ・ケイパビリティ」を解説している書籍の中でも特にオススメです。

『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ)

最後は少し毛色を変えて文学から。著者のカズオ・イシグロは、自分自身が福祉業界に従事していた経験も持つ作家で、本作では福祉業界におけるパターナリズムへの反省や、被支援者の意思や欲望をどのように捉えるのかといったことがストーリー全体を貫く通奏低音となって描かれています。福祉的な視点に馴染みがなくとも楽しめる作品ではあるのですが、そうした観点について考えながら読み進めるとまた違った面白さを感じることができます。

最後までお読みいただきありがとうございました。