こんにちは。daisuketです。書評ブログ「淡青色のゴールド」へようこそ。
本記事では芥川賞作家中村文則氏のデビュー2作目『遮光』の感想を書きます。
内容紹介
亡くなった彼女の指を瓶に入れて持ち歩く男の話、というなかなかぶっとんだ設定のお話です。
カバー裏のあらすじから引用します。
恋人の美紀の事故死を周囲に隠しながら、彼女は今でも生きていると、その幸福を語り続ける男。彼の手元には、黒いビニールに包まれた謎の瓶があった―。それは純愛か、狂気か。喪失感と行き場のない怒りに覆われた青春を、悲しみに抵抗する「虚言癖」の青年のうちに描き、圧倒的な衝撃と賞賛を集めた野間文芸新人賞受賞作。若き芥川賞・大江健三郎賞受賞作家の初期決定的代表作。
私にとっては初めて読んだ中村文則作品。前々から本屋でいくつかの作品をみかけて気になっていて、どれから読もうかなと考えていたのですが、先日実家に帰った際にこの『遮光』があったので借りてきて読みました。
あらすじにある「虚言癖」という言葉や「恋人の指を瓶に入れる」という設定やキーワードだけみると、すごく強烈で強い感じを受けてしまうかもしれませんが、非常に繊細な小説です。著者によるとデビュー作の『銃』と本作『遮光』は「なんというか、僕のやわらかい部分に属する」小説であるらしいのですが、読んでみるとなんとなく分かります。
雰囲気としてはカミュの『異邦人』なんかを連想しました。
暗い小説を必要とする人、しない人
暗い小説ですが、そういう小説が必要な人やタイミングというのはたくさんありますよね。
私の手元にある版では帯に「ピース又吉が愛してやまない20冊!」と紹介されており、又吉さんの一言コメントが掲載されています。
もし、世界に明るい物語しか存在しなかったら、僕の人生は今よりも悲惨なものになっていたでしょう。自分の暗い部分と並走してくれる何かが必要な夜があります。
よく分かります。そういう小説が必要なのです。
例えば私にとっては太宰治の『人間失格』なんかはそういう小説であり、大げさにいえば思春期の私にとっては一つの「救い」ですらありました。
自分の苦しさや悲しさや怖さや恐れなどあらゆる感情との向き合い方を、小説の主人公という別の人格の経験を通して自分の中に落とし所を見つけることができたりするのです。必ずしも主人公自体が救われていたり、何かが解決されるハッピーエンドである必要はなくて「そうであること」を知ることができることによって救われるものが、あるのだと思います。
著者の中村さん自身の言葉でも「救い」という言葉が使われていましたのであとがきから少し引用しましょう。
苦しみから一定の距離を置くのではなく、その中に入り込んで何かを掴み、描き出そうとすること。僕が読んで救われた気分になったのは―たとえそれが悲しにまみれた物語だったとしても―そういう小説だった
同感です。私もそういう小説に救われてきました。
だから、万人に求められる小説、ではないでしょう。これを読んで面白くないと感じる人もたくさんいるはずです。でもそれで良い小説なのです。大衆に向けた小説ではないのですから。
例えば私が「救い」の経験を得た『人間失格』についても読んだ人の感想が分かれるという話を聞いたことがあります。
あの主人公を「自分のことだ」と感じ、共感を超え自分に重ねたような衝撃を受ける人と、まったく逆に「こんな人間いる訳がない。理解不能だ」と感じる人とどちらかに分かれるという話です。読んだことのある人は、どちらかにあてはまりそうでしょうか?
私自身は完全に前者であり、だからこそ「救い」を感じるような感覚を味わったのです。
本作のような「暗さ」を必要とする、というのもきっと近い感覚なのではないでしょうか。
「虚言癖」主人公の性質を表す言葉はどうあるべきか
先にも触れた通りカバー裏の内容紹介には主人公は「虚言癖の青年」と紹介されています。私は読み終えてからあらためてこの内容紹介の言葉を見て少し違和感がありました。虚言癖という一言にまとめてしまって良いのだろうか、と。
確かに主人公は嘘を付きます。恋人の事故死を隠し、仲間たちには恋人がいまでも幸せな生活を送っていることを語り続けますし、それ以外にも「嘘」が常態化しているような表現は確かに見られます。ただ、それを「虚言癖」と病的な言葉に集約してしまうことは、この物語が表現しようとしているものを薄くしてしまうように感じます。
中村さんの言う「苦しみから一定の距離を置くのではなく、その中に入り込んで何かを掴み、描き出そうとする」態度というのは、病んでいることと病んでいないことの境界をはっきりさせてしまうという態度とは異なっているのではないでしょうか。
先日書いた吉田修一さんの『犯罪小説集』の書評では、事件や犯罪をニュースの中のできごととして自分の周りのこちら側とメディアの向こう側の境界を作ることの問題性について少し考えましたが、人やその精神のあり方に必要以上に病名を「診断」しすぎようとすることも同じような問題をはらんでいるのではないかと感じます。
小説の内容紹介という限られた字数の中では象徴性のある言葉にまとめることの有効性はあるでしょうし、強い言葉を使うことによって興味を惹かれる人もいる(という宣伝効果も狙わざるを得ない文章である)ということも考えると、細かいところをつつき過ぎているのかもしれませんが、内面のあり方の言語化というのは丁寧で、繊細な課程だし、それは読者に委ねられるべきものだと思うのです。
本作のタイトルは『遮光』。中村さんはタイトルをつけるのに迷ったそうですが、こうしたことを考えてくるとなおさらいろいろな意味に考えられます。
覆われた瓶の中の指はたしかに光を遮られたものですし、嘘を重ねて現実から目をそらす主人公の態度も遮光カーテンを引いた部屋に閉じこもるような態度と読むこともできます。そして物語の中に表現された繊細でやわらかいメッセージに強い言葉をつけて、知らないふりをさせてしまうような態度がもしあるとすればそれもやはり『遮光』的な態度なのかもしれません。物語を消費する私たち読者の態度まで含めて複層的な意味合いがあるとしたら、面白いですよね。
あなたはどう、感じるでしょうか。
『遮光』を読んだ人や興味を持った人にオススメの本
最後に本作『遮光』を読み終えた人や、興味を持って本記事にたどり着いた方にオススメの本をご紹介します。
カミュ『異邦人』
本作を読みながら雰囲気が似ているなと連想した作品がカミュの『異邦人』。「きょう、ママンが死んだ」という書き出しが有名なのでそこだけご存じの方もいるかもしれません。『遮光』の主人公は「虚言癖」と表現されていましたが、『異邦人』の主人公ムルソーも病的な異質な人間として描かれます。
ドストエフスキー『地下室の手記』
同じく陰鬱な雰囲気を感じる海外の小説からもう一作品。ドストエフスキーの作品は長大な物語が多いですが、この『地下室の手記』は比較的短めです。『遮光』の主人公とは異なりますが、やはりこの主人公も異質。『遮光』との違いでいうと、よりその主人公の内面に深く潜っていくような感覚を味わうにはオススメです。
太宰治『人間失格』
陰鬱さの中に救いを求めるという物語というと私の中では太宰治が浮かびます。中でも『人間失格』は代表作の一つでもありますし、著者自身の姿を何かしらの形で投影することで「暗い小説」を仕上げるという本作とはまた少し異なったアプローチの作品としてオススメです。
遠藤周作『海と毒薬』
日本の作家からもう一作品。遠藤周作作品もやはり明るいか暗いかでいえば暗いです。遠藤周作自身がクリスチャンであることもあり「良心とは何か」という形である程度テーマが濃厚に押し出される形で物語が進行していくという点がこれまでに紹介した作品とは異なった部分ですね。ちなみに遠藤周作は小説は暗いのが多いですが、エッセイだとびっくりするくらい明るかったりします。この点は著者本人は明るいという中村文則さんとも通ずる部分があるかもしれません。
池谷裕二『脳には妙なクセがある』
最後にノンフィクションから一つ。脳の働きに関する(出版時点での)最新の研究結果をわかりやすく紹介する作品。主人公の異質さや一般社会とのズレというのが本作や、その他の「暗い小説」の中でテーマとされてくる訳ですが、そもそもそうしたズレを認識したり、言動を決定するもととなる意識というものはどういうものなのか。どこに存在するのか。そういった点を科学的な視点でも吸収した状態で小説を読むと、また違った味わい方もできて楽しみがより一層深まります。